白い丘

女が丘の頂上の階段に腰かけて一人で歌っている。無伴奏の儚いメロディー。曇った灰色の空の下、赤いワンピースが風にはためき、彼方には空と同じ色の海が広がって、波が静かに打ち寄せ散ている。海と女を同時に映すその画面にスタッフロールが重なり、映画はそのまま終わる。
その歌声があまりに美しかったので、ノブオはスタッフロールを最後まで見てしまった。映画館を出たとき、彼は静かに興奮していた。それはいわゆる感動だったが、それよりずっと強い、具体的な欲動を伴ってもいた。彼は女が歌っていた海を見下ろす丘に行ってみたいと思った。いや、行かなくてはならない、呼んでいる、あの丘が呼んでいるのだ、と彼は熱っぽく一人でつぶやいた。

映画のロケ地を調べること自体は難しくなかった。インターネットで検索したらすぐに見つかった。ポルトガルの北部の海沿いに位置する小さな田舎町。問題は時間だった。考えるまでもなくポルトガルは遠い。ノブオは会社に勤めていたので自由に時間を使うこともできない。しかし彼は今このタイミングでどうしても行きたかった。現在の時期、ポルトガルはちょうど夏と秋の境目を迎えるはずだった。そしてあの映画はまさにその季節を描写していたのだ。
彼は会社に無理を言って休暇を取った。上司からも同僚からも文句を言われたが、彼は気にしなかった。仕事より大事な物事はある。今を逃したらこの先永久に次の機会はやってこないと、なぜか彼は確信していた。そして九月の終わりごろのある日、ノブオは羽田空港からポルトガルへ向けて飛び立つ。

ポルト空港から電車とバスを乗り継いで、目指す田舎町に到着した。斜面にびっしりと連なるように建物が立ち並ぶ、静かで人けのない土地だった。とくに有名な映画ではなかったので、舞台となったロケ地が有名な観光地となってあちこちからファンが押し寄せる、などといったことは起こっていなかった。
街には数多くの坂道と階段とトンネルが存在した。道を歩きながら、ノブオは映画のそれぞれのシーンを思い出していた。街路樹の影や建物の壁のひびや物陰で眠る黒猫といったものを見かけるたびに、シーンがよみがえるのだった。彼はエンディングテーマを聴くために何度となくその映画を観たので、すべてのシーンはみんな頭に刻み付けられている。

ある階段を上り切ったとき、ノブオの目の前にはラストシーンと同じ景色が広がっていた。そこが街で最も高い場所だった。煙るようにおぼろげな水平線、粘土みたいにゆっくりと空を横切る重たそうな雲、時折吹く冷たい風。まるで仕組まれたように、天候も時間帯も映画のラストシーンとほとんど同じだった。ノブオは一瞬強烈な既視感を覚えた。ずっと昔、あの映画を観るよりはるか以前にどこかで見た景色を思い出しそうになった。子供のころの日暮れ時に感じた空気の冷たさが皮膚によみがえるのを感じた。
ノブオは階段の段差に腰かけ、ラストシーンの女と同じ姿勢で座った。頂上にも、遠くの海岸にも人けはなかった。風と波の音のほかには何も聞こえない。しばらくぼんやりしていると、身体の奥のほうで何かどろどろしたものがこぼれるような感じがして、意識が一瞬大きく揺れた。それは眠りに落ちる直前の感覚に似ていた。そしてどこからともなくあのエンディングテーマが聞こえてきた。記憶ではなく明らかに生身の人間の歌声だった。ノブオは振り返ることもなく、ただ耳を澄ませた。