古本屋で

古本屋で、いろんな本を引っ張り出して少し読んで戻したりしながら、長い時間店にいた。店は狭く、そのうえ床には本がつまった段ボールがあちこちに置きっぱなしにされていてひどく歩きにくかったし、別に欲しい本も見当たらなかったが、何も買わずに出るのも気が引けて、どうしようか迷っていたのだった。
するとどこからか、誰かがぶつぶつと文句を言うような声が聞こえてきた。ときどき舌打ちのような音も聞こえた。店内に客は僕のほかに一人もいない。ふと顔を上げると、店主がカウンターの奥から鋭い目つきで僕のほうを睨みつけていた。彼はなぜか僕に腹を立てているようで、悪態をついていたのだ。でも声は小さく不明瞭で聞き取れなかった。「…するな」とか「……だろうが」とか、そういった言葉の断片がときどき聞き取れるだけだった。
後で知ったことだが、その店における僕のふるまい(棚から本を取り出して値段だけ確かめてまた棚に戻すことを繰り返す行為)は、昔ながらの古本屋では疎まれることがある。僕は普通の本屋とか、いわゆる「新古書店」にいるときようにふるまっていて、それがおそらく店主の気に障ったのだ。

僕は適当な本を手に取ってカウンターへ向かった。目の前に立った僕を店主は睨みつけた。店主は太っていて、内臓かどこかを病んでいそうな土色の顔をしていた。肌は茶色く乾いていて、ところどころに深い皺がまるでひびのように走っていた。そのひび割れに埋もれるように、小さな黒い実のような目が光っている。その目は僕をまっすぐ睨んでいた。彼は明らかに腹を立てていたが、それでもいちおう僕を客として遇しようとはしているらしく、少なくとも悪態を吐くのはやめた。そして重そうに腕を持ち上げて、僕がカウンターに置いた本を手に取り、折り返しに書かれた値段を確認してから、聞き取りにくい声で金額を告げた。500円。
僕は財布から100円玉を5枚取り出し、その5枚の硬貨を、店主の胸のあたりをめがけて投げつけた。硬貨は店主が着ていた深緑色のジャンパーに当たり、そのまま床に落ちた。店主はなぜか無反応だった。怒鳴ったり、怒りをあらわにすることもなく、表情も変えずにただ無言で本をカウンターに置いただけだった。お金を拾おうともしなかった。そのあと彼は僕の存在など忘れてしまったかのように目の前のどこかを見つめていた。

帰る途中、欲しくもない本を買ってしまったことの後悔が押し寄せてきた。気持ちを落ち着けるために僕は意味もなく街をでたらめに歩き回った。途中で鶏卵焼きの屋台を見かけたので一袋買った。それは普通はベビーカステラと呼ばれる小さいボール状のカステラだが、僕が住む地方では鶏卵焼きという呼び名で通っている。
帰宅時間は予定より30分ほど遅れた。玄関のドアを開けると息子のケイが駆け寄ってきて、妙に機嫌がよさそうだったので、何か言うのを待ったのだが、別に言いたいことはないらしく、ただにこにこしている。なんかいいことあった、と僕は尋ねたが、息子はやはりただ笑っていた。別に何もないらしい。
鶏卵焼きを買ってきたよ、と言うと、それを聞いたリヴィングでテレビを見ていた娘のユイが悲鳴に似た高い声をあげて駆け寄ってきた。やったあ、鶏卵焼き、などと彼女は言って、弟も一緒に喜びはじめた。ユイとケイは鶏卵焼きが大好物なのだった。
コーヒーいれるわ。と妻が言った。そのあと僕たちは鶏卵焼きを食べながらしばらくのんびりした。そのとき僕は妻に、クリーニング屋の衣類を引き取ってくれたかと尋ねられ、はじめてそのことを思い出してた。それで妻は僕の忘れっぽさをなじりはじめたのだが、そばにいた娘のユイが、僕を擁護してくれた。つまり娘に言わせれば、僕がクリーニング屋に行くのを忘れたからこそ、鶏卵焼きの屋台の前を通りかかることができたのであって、そうしなければ今頃こうして鶏卵焼きを美味しく食べることなどできなかった、だから僕は悪くない、ということだった。娘は意外なほど僕と妻との会話を聞いていることがある。
ユイとケイは大好きな鶏卵焼きをほとんど食べまくっていて、そんなに食べたら夕食が食べられなくなる、と妻に注意されていた。

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夜、僕は例の古本屋で買った本を読んでいた。すると妻がやって来て、声をかけてきた。「『鉛のような無気力』?…変なタイトル。」「うん」「どんな本なの?」「小説だよ」「有名な作家?」「いや、ぜんぜん知らない」「面白い?」「うん、…今のところはそうでもない」「好きな作家の本を、買えばよかったのに」「置いてなかったんだ。でも何か買わんと、店を出づらい雰囲気だったから」「どこの店?」「あそこの、駅前の古本屋」「欲しいのがないんやったら、買わんで帰ればよかったのに」「何だか店主が怖そうな人で、買わずに出たら怒られるんじゃないかと思って」
僕がそう言うと妻は笑っていた。そのあと妻が、「ねえ、ここ汚れてる」と言って、本の裏表紙を指さした。見てみるとそこには茶褐色の小さな汚れがあった。血の跡みたい、と妻が言って、僕も同意した。それは本当に乾いた血の跡のようだった。

そのあと妻は眠ってしまった。彼女はときどきうらやましくなるほど異常に寝つきがよい。僕は午前1時過ぎまで本を読み続け、残りは70ページほどだったのだが、少し休むつもりでページに指を挟んで目を閉じていると、いつの間にか眠っていた。