Cyrodiilに帰る

今日は久しぶりにCyrodiilに帰りました。そうだ、『The Elder Scrolls IV: Oblivion』を遊ぶことは、まさしくCyrodiilに帰るという感じなのです。『Oblivion』に没頭していた時期、僕は実際にその世界を生きていたように思いますた。Cyrodiilの空気を呼吸し、その世界を照らす太陽の光を実際に浴びていました。そこに生きる人々と言葉を交わし、魔物を殺し、鹿や熊を狩り、草花を採集しました。魔法を習得し、オブリビオン・ゲートを封鎖し、街では略奪や強盗を犯し、一般市民を殺害しました。僕はときに勇者で、ときに殺人鬼であり、人々の尊敬を勝ち得ると同時に汚らわしいCriminal Scumでもありました。そうやって僕はあの世界を生きていたのです。その記憶は現実と同じかそれより生々しい。たとえば過去の楽しかった旅のことを思い出すときのように、僕はそのゲーム体験を思い出すのです。
現実に外で雪が降っていた寒い冬のある日に、このゲームを行っていたのですが、そのとき私はファストトラベルを使わず長い道のりを歩いて、雪に覆われたBurmaの街に到着しました。そのとき現実に、部屋の窓の外では雪がちらついていて、ゲームの世界の雪景色と現実とが一続きになるようで、二つの世界の境界がとても曖昧に感じられて、夢見るような気分を味わいました。そのことは忘れられません。
だからこのゲームのBGMを耳にすると、ほとんど胸が締め付けられてしまいます!ゲーム中には音楽などろくに聞いていないか、場合によっては邪魔にさえ感じていました。それなのに。

あまりにこのゲームが好きすぎて他のゲームが色あせて見えることがあります。このことは『Oblivion』の最大のデメリットかもしれません。他のどんなゲームも、これと同じほどの没入感を与えてはくれないだろう、と思ってしまい、他のゲームで遊ぶ気が起きなくなってしまうのです。ゲーム体験が人生における一つの印象深い思い出になってしまうほど、深く没入できるゲームは、そんなに多くはない気がします。……