砂場の子供たち

幼稚園のすぐ正面にある公園は、かつては園児の運動場としても利用されていたのだが、この度幼稚園が閉園になるにあたり、遊具もみんな取り払われてただの空き地になった。片隅にある砂場だけが、なぜか残されていた。あるときからその砂場に子供がおおぜい集まるようになった。子供たちは平凡な砂遊びをするわけではなく、砂場の砂をめいっぱいに使って、何か大掛かりな造形物を作りあげようとしているらしい。しかし何を作ろうとしているのかは不明だった。今のところ、それはただの大きな砂山にしか見えない。子供たちは彼らが作ろうとしているものについて、決して語ろうとしない。

とにかく彼らはその制作作業に夢中だった。それもちょっと度を超えて、常軌を逸して夢中になっていた。砂場にいるとき、子供たちの顔つきは普段とはまるで違っていた。どの子供も集中した顔つきで、迷うこともなくてきぱきと、それぞれに割り当てられた役割をこなしていた。
大人たちは砂場の子供たちが忙しそうに働くさまを眺めることを好んだ。そこには純粋な集中力と喜びが見いだせたる。誰も笑顔一つ浮かべないけれども、明らかにみなその作業を心から楽しんでいる。強制されるでもなく自然発生的に、ある何かの完成を目的として、一つになっている。

そして人々は砂場という遊び場の神秘性を、その不思議さを、思い出すのだった。考えてみれば、砂場というのはすごいものだ。区切られた一角にただ砂を敷き詰めただけ。でも子供のころ我々は、なんだこれ、ただ砂があるだけじゃないか、こんなのでどうやって遊べっていうんだ、とは思わなかった。それどころかそれは素晴らしい遊び場になった。ただ砂があるだけで子供はひたすら遊んでいられる。時間はあっという間に過ぎる。誰がこんなものを思いついたのだろう?

子供たちによる砂の建造物はひたすら発展を続ける。高さはすでに子供たちの背丈を上回っている。今では彼らは脚立や梯子を持ち出して作業を行っている。でもいまだ造形物ははっきりとした形を取ることはない。何が出来上がるのか、やがて大人たちも気にしなくなった。何にしてもきっと素晴らしいものができるはずだ。たとえそれが、ただ大きいだけの砂山とか、何だかわからない不格好な物体だったとしても、それが完成したとき、みんな至福の喜びに包まれることだろう。人々はそのときの到来を待ち望んだ。