レモントルネード

彼の名前は立間檸檬といって、もちろん本名である。でもテストの時などには名前欄に立間レモンと書いた。自分の名前は画数が多すぎると思っていたからである。あるときレモンは学校の教師に、名前欄にはカタカナではなく漢字で正確に名前を書くべきだと叱られて、テストの成績を全教科0点にされてしまった。レモンは抗議したが教師は聞き入れなかった。そのような厳しい処置が下されたのは、レモンが普段からあまり褒められた児童ではなかったことも影響していたのだろう。彼はしょっちゅう問題を起こした。上級生を殴ったり、下級生をいじめたりした。彼は喧嘩の強さのほかに誇るものを持たず、その能力を自分の専門性(スペシャリティ)であると、ごく早いうちから認識していたので、それを伸ばすように、大切にするように生きてきたのだった。同級生たちはたいていレモンに恐れをなし、ほとんどこびへつらっていた。
いちいち「檸檬」という漢字を書いていたら、問題に取り組む時間が削られるわけで、画数のない子に比べてそのぶんだけ自分は不利になる、それは不公平で理不尽だ、とレモンは抗議したが、教師は聞く耳を持たなかった。それどころか教師はテストとは関係のないことまで持ち出してレモンに説教を始めた。普段の学校での振る舞いや授業態度、服装や髪型について、そうした紋切り型のお説教である。レモンはしばらく黙って聞いていたが、だんだん頭に血が上ってきて、気が付くと担任教師の頬を殴りつけていた。生徒が教師に暴力をふるうというのは、たとえ小学校でおいても、重大な事件である。職員室の空気は凍りついたようになった。そこに居合わせた教師たちはみな、自分がいま目にしたものが信じられないといった顔をしていた。中学や高校でならともかく小学校において、この手の暴力沙汰はまず起きないのだ。たとえ乱暴者で有名なレモンであっても、誰もそこまでするとは思っていなかったらしい。殴られた教師は頬を押さえて、どこか茫然とした顔つきをしていた。彼はそれ以後レモンの目を見ようとしなかった。
しょせんは小学生のパンチであるので、教師は大した怪我もしていなかったが、だからといってレモンの行為は許されるものではない。その後、レモンは小学生でありながら一週間の停学処分を受けた。そして停学処分が解けた後も、レモンは学校に行こうとしなかった。

レモンが学校に行かなくなって2年になる。本当なら中学校に通っているはずの年齢である。母親は、レモンが学校に行かないことを宣言したとき、驚くことも𠮟りつけることもなかった。無理に学校に行かせようともしなかった。まあ仕方がない、という感じでレモンの意思を尊重した。小言のようなものを口にすることはあったが、それもおざなりのようなものだった。レモンの目には、母は不登校児に対する親としての適切なふるまい、といったものをただ演じようとしているだけのように見えた。そして母は明らかにそのことにさほど熱心ではなかった。

母も昔、長く不登校だった時期があったことを、レモンは後になって知った。そのことを教えてくれたのは伯父だった。伯父とは母の兄で、独身で、何をして暮らしているのかよくわからない無頼的な人物である。伯父はよくレモンに家の草刈りを頼みに来た。伯父が一人で暮らす小さな家の狭い庭はすぐに雑草がはびこるのだが、どういうわけか伯父は決して草刈りを自分でやろうとはしないのだった。それで草が伸びるとレモンを呼び寄せて草を刈らせる。それはけっこうな労働ではあったが、報酬として少なくない額のお小遣いをもらえるので、レモンはさほど嫌ではなかった。その仕事を終えて、伯父と二人でジュースを飲んでいたときに、伯父は母が不登校だったという話をしたのだった。その事実はレモンにとって初耳だった。母が大学まで出ていることをレモンは知っていたから。
「そう、大学は出とるよ。でも高校には行ってないんよ。中学にもろくに行ってない。高校卒業認定を取って、大学に行ったんよ」
レモンは母があまり学校のことでレモンを𠮟りつけなかった理由を知った。母の不登校の原因について伯父は話さなかった。レモンが伯父に、例の教師殴打事件の顛末を語ったとき、伯父はひとしきり笑ってから言った。
「その先生が正しいとも思わないけど、でも殴っちゃだめだよ。殴ってしまった時点で話が変わってしまう。問題が別の段階に移ってしまう。それは悪いやり方だったね。まあ気持ちはわかるけどね」

🚲

学校に行かないレモンは毎日海で釣りをしたり、家でテレビ・ゲームをしたり、自転車を乗り回したり家の手伝いをしたりして過ごした。
ある日、母がレモンに言った。「あんた、ミヨおばちゃんにこれ届けてきてくれん」
母は袋に入った包みを差し出した。袋の中身は母がこないだ博多に出かけた際に買ってきたお土産の博多ラーメンだった。ミヨおばちゃんというのはレモンの叔母で父の妹である。叔母は10km離れた隣の街に住んでいる。レモンは何度もそこに遊びに行ったことはあったが、一人で行ったことはなかった。遠い上に道のりが坂だらけで険しく、車で連れて行ってもらう以外にはなかったのだ。
レモンは引き受けた。そしてさっそく次の日、荷物を自転車のかごに乗せて、朝9時ごろに家を出た。比較的涼しい薄曇りの日で、梅雨時ではあったが雨も降りそうになく、長旅には悪くない気候だった。彼は自転車で険しい坂道を上る。道はやはりしんどく、汗を流し息を切らしながら、何とか坂道の中腹を過ぎたあたりで、いったん休憩をとった。レモンはガードレールにもたれて持ってきた水筒のお茶を飲む。道路沿いには田んぼや畑が広がっている。遠くには神社が見え、連なる民家の屋根の向こうに、中学校の校舎が小さく見えた。それは本来なら今の時間、レモンがそこにいて授業を受けているはずの中学校である。このあたりに住む同年代の子供たちは、みなあの校舎の中にいるはずだ。彼はその建物から目を背けた。
道路の反対側には背の高い木々が生い茂り、それに埋もれるように林の奥へ続く小道があった。レモンは子供のころ、その道を通って林で虫取りをしたことを思い出した。そうだ、その頃にはレモンの父もまだ生きていた。夏休みのことで、珍しく父が遊びに連れてきてくれたのだ。レモンは父と二人で山に入り、トンボとかカマキリとか、そうした虫を捕まえた気がする。
目の前をときどき自動車が走り過ぎて行った。そのほかに視界に動くものは何もなかった。レモンは休憩を終え、再び自転車にまたがって出発した。道のりはやっと中ほどを過ぎたばかり、まだ険しい坂道が控えているけれども、みな登り切ってしまえばあとは下り坂が続くはずで、そこまで行けばもう自転車のペダルを漕ぐ必要もなくなる。そして坂道を下り切ってしまえば、目指す叔母の家はもうすぐそこなのだった。
レモンはのんびりと走った。曲がりくねった道路沿いにはため池や雑木林があり、民家は点々としかない。平日の午前中ということもあって、いつもよりずっと静かに感じられる。考えてみればこんな時間にレモンはこの道を通ったことはなかった。ため池の水面は妖しげな緑色をしている。ついに坂を登りきってしまうと、そのあとはあっという間だった。小学校と墓地と海水浴場を通り過ぎ、叔母の家にたどりついた。
レモンがインターフォンを押そうとしたとき、家の玄関の扉が開いて一人の少女がでてきた。見知らぬ少女だった。レモンと年はそう変わらないように見えた。少女はレモンのほうをちょっと見ただけで、特に何も言わず顔色も変えず、門を出てどこかへ歩き去ってしまった。
レモンがインターフォンを押すとすぐにドアが開いてミヨおばちゃんが現れ、ああ久しぶり、よう来たねえ、と言った。レモンも挨拶をして、母からのお土産だと博多ラーメンを手渡した。
暑かったやろう、何か飲んでいき、と叔母が言うので、レモンは家に上がり、オレンジジュースをごちそうになった。氷の入ったジュースはやたらおいしく感じられた。外では蝉の声がけたたましく響いている。ミヨおばちゃんはレモンが学校に行くのをやめた当初は、いろいろ世話を焼くようなことを言ったりしていたが、最近ではなぜか何も言わなくなった。呆れたのかもしれない。
レモンちゃん一人でここへ来たのはじめてやね、と叔母が言って、レモンは頷いた。
暑いし、大変やったやろう。
大したことなかったよ、僕はタフだからね、とレモンが言うと叔母は、はああ、立派なことを言うようになったものやわ、と言った。
しばらくそうした世間話をした後、レモンはさっきの女の子は誰なのかと尋ねてみた。ミヨおばちゃんは近所の家の娘さんだと答えた。
「大きい白い犬がおる家があるやろ、あそこの娘さん。ユカちゃん。回覧板を持ってきてくれたんよ。あんた、会ったことあるやろ。
レモンは記憶を手繰った。何度も叔母の家に遊びに来ているので、近所の人と顔を合わせることもなくはなかったが、あの少女のことは覚えていなかった。でも叔母が言った大きな白い犬のことなら知っている。それは熊みたいに大きくて真っ白な犬である。
でもなんでこんな時間にあんな若い人がうろうろしてるの?
レモンがそう言うとミヨおばちゃんはホホホホと高い声をあげて笑った。あんただって同じやないの。
そうやけど、でも……
あの子も学校に行きよらんのよ、とミヨおばちゃんは言った。
へえ。
いい子なのにねえ。しっかりしてるし。
何か原因があるんかな。
さあ。それは知らんよ。あの子話そうとせんし、無理に聞き出すわけにもいかんやろ?
いくつ?
あんたの一つ上よ。
ふうん
綺麗な子やろ。照れんでええんよ、顔が赤くなっているよ。
そのあとミヨおばちゃんはカスタードケーキがあるので食べるかと聞き、レモンは食べると答えた。食べ終えると午前11時だった。お土産を渡してしまったレモンは、もう用事もないので引き取ることにした。叔母は、今日はありがとうね、またいつでもおいで、と言った。レモンは家を出た。

🍋

なんだか急に手持ち無沙汰になってしまった気がしたが、実際にそうなのだった。もう今日はここに何の用事もなく、あとは帰るだけ。それでもまだどことなく気持ちがすっきりせず、すぐに帰る気にもなれなかったので、レモンは何となく自転車であたりをうろうろしていたが、そのうちに彼は、あの大きな白い犬がいる家の前を通りかかった。
犬は犬小屋の外でゴロンと横になっていたが、レモンが近づくと起き上がって寄ってきた。その毛並みはいつもどおりくまなく真っ白でとても綺麗だった。レモンは犬がさりとて好きではなかったが、その犬のことは比較的気に入っていた。レモンは鉄の門の柵越しに不器用に犬を撫でた。しばらくそうして動物とぎこちなく戯れていると、犬の背後から突然ひょっこりという感じで人影が現れたので、レモンはぎょっとした。それは先ほどすれちがったユカという名前の少女だった。彼らはお互いにしばらく見つめ合っていた。ミヨおばちゃんが言っていたほど、美しい少女だとは思えなかった。顔は丸いし、口角が下がっているせいでどこか不機嫌そうに見える。肌にもニキビやそばかすの跡があった。しかしミヨおばちゃんの意見もわからなくはない。彼女にはどこか人目を引くところがある。皺ひとつない清潔そうな服装のせいかもしれないし、艶やかで真っ直ぐな長い髪の毛のせいかもしれない。腕や脚はふっくらしていて色が白かった。
レモンは少女と出くわすことを、多少は期待していたとはいえ、まさか現実になるとは思わず、多少パニックに陥っていた。それで彼は思わず、何か用ですか、と口にしていた。
それはこっちの台詞だと少女ユカは言った。
そうですね、ごめん。
あなたレモンちゃんやろ。
よく知ってるね。
おばさんから、聞いたことあるから。…ここで何しよったん。
犬と遊んでいたとレモンは答えた。
犬が好き?
うん、大きい犬ならね。こいつは白熊みたいだからなあ!
小さいのは?
大きいほうがいいな、何だかどっしりして、落ち着いて見えるし。
ねえ、あなた、学校に行きよらんのってね。
うん。
いくつ?
14。
レモンって名字なん?
ちがうよ。名字は立間。
竜巻?
たつまです。
ああ。……
ところで、あなたの名前は?…とレモンは知っていながら一応尋ねた。
ユカ。
どんな字を書くの。
書かない。カタカナだから。カタカナでユカ
何だって⁈
何でそんなに驚くん。
じゃあ、すごく画数が少ないんやね。
画数?そうやね。すぐ書き終わるね。
少女ユカは依然としてよくわからないという顔をしていた。そこでレモンはまたしても彼の名前にまつわるエピソードを語った。ユカはたいして面白くもなさそうに聞いていた。
私も学校に行っていないんやけどね、とユカは言った。
うん。
でも私には、あんたみたいなそんなエピソードはないわ。
じゃあ理由はないの?
理由はあるよ、ちゃんと。でも大したことじゃないし、つまらない話だから。
ねえ、ちょっとそのへんを散歩しようよ、とレモンは誘ってみた。ついでだから犬もつれてさ。
犬は朝と夕方にしか散歩せんのよ。と少女ユカは言った。でもいいよ、ついて行ってあげる。何か悪させんか、見張っとかんとね。
悪さなんてしないよ。
でも先生を殴るような人なんやろ?
それは…
見かけによらず乱暴者なんやね。
仕方がなかったんよ。いろいろあったんだよ。運が悪かったんだ
誰の運?
僕もあの先生も、お互いに。

彼らは並んで歩きだした。
レモンがこのあたりの海岸を歩いたのはかなり久しぶりのことであり、今日、少女ユカに出会わなかったら、その機会はずっとなかったはずだ。彼は子供のころは、叔母の家に来るたびに海岸で遊んでいた。その頃、一緒に遊んでくれる兄のような存在の男の子がいた。それは叔母の家の隣に住んでいたレモンより6つ年上の男の子で、彼はレモンをかわいがってくれていて、レモンもなついてよく一緒に遊んでいたのだが、彼はある年の夏に、水難事故で死んでしまった。お兄さんはそのとき中学2年生だった。優しくて泳ぎが上手で、学校の成績もとてもよかったらしい。次の年のお盆に、いつものように叔母の家に出かけたとき、隣の家はひどくひっそりしていて、その家の窓の下に立って名前を呼んでも、もうお兄ちゃんは出てこなかった。そのあとから、なぜかレモンは何となく海に対して関心を失くした。泳ぐのも好きだったのに、めったに泳がなくなった。

🌊

海辺には多くの不思議な場所がある。たとえば岩と岩の隙間の洞窟みたいな暗がり、雑木林に囲まれた、板を組み合わせただけの小屋のような粗末な家、その小さな庭にはなぜか金色の菩薩像が置かれ、その像はその家の周りに張り巡らされたビニールの紐による柵の隙間から、海を見つめている。
海岸の端にある小高い岬に、レモンとユカは登った。風が心地よく、平らな頂上には草むらがあって、レモンはそこに寝そべった。ユカにも同じようにするよう勧めたが、彼女は服が汚れるからいやだと言った。
ユカは岬の端に立って水平線を見ている。岸壁に波が打ち付ける音が聞こえていた。彼女はしばらく動かずに同じ姿勢でいた。その姿を眺めていると、レモンは自分が今日初めて会った少女と一緒にいることが不思議に思えて、自分の存在があやふやになるような感覚を覚えた。彼はしばしば、本当に自分がここにいるのか、自分の姿は他人に見えているのかわからなくなるような感覚に襲われる。人間ではなく、ただの視点としてそこに在るだけなのではないか、といった感覚。そうなると少しの間ちょっとした不安に襲われるのだが、でも今日は比較的すぐに、正常な気分に戻ることができた。
どうしたの、急にぼんやりして。少女がそんな風に話しかけてくれたからかもしれない。

岬の上なんて何もないしつまらないと思っていたのに、レモンは海を眺めるだけで、不思議と退屈は感じなかった。
ときどき夜中に海に来るんよ、と少女ユカが言った。
へえ。
眠れない夜にね、海岸を散歩するの。
いいね。
月が出ていたりすると、水平線のあたりに月が青っぽく浮かんでて、海が銀色に光って、岩場も砂浜も青白く染まって、とても静かなの。聞こえるのは波の音だけ。
レモンはその光景を想像した。それは彼がいまだ見たことのない多くの風景のうちの一つだったが、なぜかどこかで見たことがあるような気もした。そして彼は月明かりの夜にそうしてひとり砂浜に佇む少女ユカを憐れむような気持になったが、その感情はもちろん、いとおしさにも似ていた。

僕も今度来るよ、夜中に。
ここに?
うん。
でもあなたの家って遠いんやろ。
自転車ですぐだよ。
夜中だよ。暗くて怖いよ。
平気さ。
実際に何度かレモンは夜中に外を意味もなくうろついたことはある。でもそんなに遠くまで出かけたことはなかった。夜中に自転車をこいで再びこの町まで来る。そのことを思うとレモンは少しわくわくした。少女ユカと二人で夜の海に浮かぶ月を眺める。レモンはその甘美な想像に魅了されていた。彼は意外とロマンチックな人間である。
まもなく正午になり、少女ユカは、もう帰らないと、と言った。レモンとユカは岬から降りて海岸を後にした。レモンはユカに別れを告げ、自転車に乗って帰った。


帰り道で、下校中の中学生の集団を見かけた。やけに下校時間が早いのは、おそらく今が夏休み前の期末テストの期間だからだろう、とレモンは思った。レモンの顔見知りの子供も何人かもいた。こういう状況の時、つまり学校に行っている子供たちに自分の姿を見られるようなとき、レモンは意識的に表情を変える。目つきを鋭くし、口をきっと一文字に結ぶ。それは何かに腹を立てている表情に見えるはずだが、彼はその顔を自分で見たことがないのでわからない。あえて鏡に映して見てみたいとも思わない。
一本道なので避けようもなく、レモンは彼らとすれ違うほかなかった。道路の反対側に移り、彼らがこちらを無視してくれるよう願いながら、レモンは通り過ぎようとした。しかしもちろん彼らはレモンに気づいた。「あ、レモンちゃーん」という声が聞こえて、それはレモンが幼稚園のころから知っている女の子だった。女はどこ行くのー?と叫び、そのあとさらに何か言って、それはレモンには聞き取れなかったが、そのあとで周りの子供たちが笑い声をあげた。レモンは答えず、視線も向けずに走り去った。

⭐🚲

次の日の夜、レモンは夜中の冒険に出発した。母親は自室で眠っている。彼は玄関からそろそろと家を出る。玄関の扉は、普通に開閉すると必ず音を立てるので、彼は細心の注意を払って、ひどくゆっくりと動かした。眠気だけは気がかりだったが、その日の昼間にはレモンはたっぷりと昼寝をしていたので、夜中になっても目がさえていた。時刻は午後11時過ぎで、外出することはもちろん誰にも伝えていなかった。彼は自転車にまたがり、夜の街に漕ぎだした。

あの坂だらけの山道に差し掛かるまでは、レモンは夜の外出をむしろ楽しんでいた。夜の暗さも別に怖ろしくはなかった。でも山道の暗さは、他の場所とはちょっと違っていた。何しろ田舎道のことであるので街灯が少なく、さらに道を挟み込む背の高い木々が月明かりを遮ってしまうため、他の場所よりずっと暗いのだ。自分の手のひらも足元も見えない。あまりに暗いために想像力が増幅され、一歩歩くごとにすぐ目の前から得体のしれない怪物が飛び出してくるのではないかとか、あるいはすぐ足元に、何か普通では考えられない異常なものが転がっているのではないかと考えてしまい、自転車をこぐペースはだいぶ遅くなった。そして暗闇の中で自転車を漕ぐことは想像以上に疲れる行為だった。山道はひたすらに長く、そして前のときよりずっと険しく感じられた。何度、あきらめて引き返しそうになったかしれない。でも今さら引き返すには進みすぎていて、こうなったらもう前進するしかない。彼は息を切らしながら懸命に自転車をこいだ。今度は途中で休むこともなかった。
ようやく坂を上りきったときには午前0時を過ぎていた。あとは下り坂だけ、でも風を切って坂を下るときにも、爽快感はまるでなかった。いまだ暗さに慣れることはできず、彼は恐怖を見て見ぬ振りしながら、ひたすら道路を走り抜けた。

そしていつの間にかレモンは目的の場所にいた。まるで途中で何度か短く意識を失っていたみたいに、暗い中を走った記憶は切れ切れで断片的だった。とにかく目の前には夜の海岸があり、そこには以前に少女ユカが語った通りの情景があった。大きく弧を描く波打ち際に、聞こえるか聞こえないかの音を立てつつ波が押し寄せ、月明かりが砂を銀色に照らしていた。
レモンは海岸を端から端まで歩いた。人の姿はひとつも認められなかった。少女ユカはいない。どうしていないのだろう、約束を忘れてしまったのだろうか。それでもレモンはなぜか、さほどがっかりするでもなかった。静かな海辺を、レモンは何度も往復した。海に浮かぶ月、その光にぼんやり照らされる水平線を見つめ、絵のように美しいとユカが言っていたことを思い出し、彼はその眺めを実際に目にしただけで、ほとんど満足していた。もしあのときユカに出会わなければ自分はこの景色を見ることはできなかった。あのときユカに会えたのは、博多ラーメンを叔母の家まで運んだからだ。博多ラーメンを運ぶことになったのは、その時間に自分が家にいたからで、もし学校に行っていればそんなことを頼まれることはなかった。学校へ行かなくなったのは、教師を殴ったためだ。つまりあのときの教師を殴ったおかげで、自分はこの美しい景色に出会うことができたのだ。レモンはそんなことを考えていた。すべてはつながっている。これが運命の成り立ちというやつだろうか?月は水平線の近くに傾き、波がひそやかに打ち寄せる静かな海岸で、レモンはひそかにその運命というやつを祝福した。

🌅

思いのほか早く時間が過ぎ、夜明けまではあと1時間ほどだった。こうなったら朝までここにいて、日が昇ってから帰ろうとレモンは思った。海沿いに松の木に囲まれた墓地があって、レモンはそこに入った。墓地はそれほど広くはなく、雑然した感じで点々と墓石が立ち並んでいる。迷路みたいに入り組んでいて、夜中だったら怖かったかもしれないが、もうほとんど朝なのでわりと明るいし、別に不気味さはなかった。レモンは手ごろな場所を見つけて背中を預け、目を閉じて身体を休めていた。そして少女ユカのことを考えていた。来てくれなかった彼女。ここに来ればすぐに彼女に会えると思っていたのに。しかし冷静に思い返してみると、彼女とちゃんとした約束らしい約束は交わしてはいなかった。何となく夜中にここに来れば会えるものと思い込んでいた。ユカがここに来るのは眠れないときだけだ。彼女はそう言っていた。昨夜はおそらくぐっすりと眠っていたのだろう。曖昧な意識の中で考えていると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえて、それは少女ユカの声に似ていた。そのうち突然、脇腹にちくっとした痛みを覚え、レモンは「痛い!!」と叫んで目を開けた。
「そんなに痛くないやろ、ちょっとつねっただけなのに」
すでにあたりは明るくなっていて、すべてのものがはっきりと見えた。少女ユカが目の前に立っていた。夢でも幻ではなく本物で実在で、やや笑みを浮かべてレモンを見下ろしている。そばにはあの白い大きな犬がしゃがんでいた。
どうしてこんなところで寝てたん?びっくりしたわ
レモンは答えようとして、しかし寝起きのためにうまく言葉が出てこず、何度か頭を振った。
僕は寝てたん?
寝てたよ。
レモンはそのことにびっくりした。こんな場所で眠り込んでしまうなんて、そんな大胆なことが自分にできるとは思わなかった。
君は何をしてるの
犬の散歩。
こんなに早く?
でももう6時すぎよ。
レモンはスマートフォンで時間を見た。確かに6時16分だった。
なんで昨日、来てくれんやったん⁈ とレモンは半ば叫んだ。
ユカはしばらく何のことかわからないという顔をしていたが、すぐに理解したらしかった。
だって来るって知らんやったし。
僕はずっと待ってたんだよ。
じゃあ夜中から今まで、ずっとここにおったん。
レモンはうなずいた。ユカは笑った。
笑い事じゃないよ、とレモンは言った。
月出てた?
うん。
綺麗やったやろ。
そうだね
でもそんなところで寝てたらあなた、何だか……怪しい人みたいよ。

ユカとレモンは朝の海岸を散歩した。ほかにも何人か散歩している人がいた。白い犬は落ちているゴムボールや魚の死骸や発泡スチロールにいちいち興味を示し、そのたびにユカは足を止め、レモンもその場に立ち止まる。早朝の空気の中を並んで歩いていると、レモンは急にいとおしい気分になって、ねえ、君のことが好きだよ、と言った。彼は以前から、学校に通っていたころにも、いろんな女の子に、ときには女性の教師に対してさえ、そうした言葉をしばしば口にした。たいてい悪戯のようなものだったが、本心だったこともなくはない。
ユカは表情も変えずに、「そう」と言った。そして海藻をいじっている犬の頭を撫でた。
また夜中に来るよ、とレモンは言った。今度はちゃんと来てよ。
ユカはちょっと笑うような表情をした。眠いからねえ…そんなにしょっちゅう、眠れんわけでもないし。
君と一緒に月が見たいんだよ
じゃあ、今度の土曜日にね。その日なら夜更かしできるわ。たぶん。
レモンは約束の指切りをしようとしたが、ユカは子供っぽいと言って拒絶した。

そのあと彼らはあまりしゃべらなかった。涼しい風が、誰にもが気づかれないほどひそかに、砂浜を吹き抜けていった。