几帳面な部屋

僕の部屋に入ったことのある人はみな、僕のことを「几帳面」な性格だとみなす。それほど僕の部屋は綺麗に整頓されているらしい。でも僕は決して、几帳面なわけではない。ただ単に、頻繁に部屋を整頓する習癖があるというだけだ。ひどく憂鬱な気分のときとか不安に襲われたとき、何もかも投げ出したい気分になったときに、部屋を片付けたくなってしまうのだ。たとえ何もかもが十分に整っている時でさえ整頓作業に着手することがある。部屋を片付けることで精神の安定を保とうとする傾向があるらしい。そしていつしか、僕はそういうネガティヴな精神状態のときでなければ、部屋を掃除しない人間になっていた。だからもし気分的に絶好調な状態が続けば、部屋は荒れる一方となるのかもしれない。でも幸か不幸かそんなことはこれまでなかった。僕の部屋はいつも綺麗だった。そのことはつまり、僕が常に多くの精神的な問題を抱えているということを意味する。しかし僕は別に病んではいない。概して僕は掃除や整頓を好んでいるし、それを行うとき、心から楽しんでいるのだから。

でも僕は几帳面呼ばわりされることにいい加減うんざりしつつあった。その言葉には好意的なニュアンスが見出せない。褒められているようには思えない。せこいとか、みみっちいとか、せせこましいとか言われているのと同じ気分がした。それであるときから、あえて部屋を整頓しないようにした。几帳面という属性を捨てるために、誰にも二度とそう言わせないために、部屋を片付けるのをやめたのだった。掃除機をかけたりテーブルを拭いたり、そうした最低限の清掃をするだけだった。最初のうちはちょっとした禁断症状に苦しめられた。放っておいたものを所定の位置に戻したくなったり、本の高さを意味もなくそろえたくなったり、物の位置をまっすぐに直したりしたくなった。しかしあえて我慢し、部屋を乱れるままに任せた。部屋はだんだん散らかってゆき、一か月が過ぎるころには、誰もこの部屋を見て僕を「几帳面」な人間だとは考えないだろう、という状態にまで、成り果てた。それはもうひどい有様で、かつて僕の部屋がそれほどの乱雑に陥ったことはなかった。それでも僕は何も感じない。いや、何も感じないようにしよう、と自分に言い聞かせた。俺はもう几帳面な人間ではない、そう言われるのはうんざりなんだよ。鏡に向かってそんなことをつぶやいては、整頓への欲求を抑圧し続けた。

ある日、部屋に久しぶりに客を招き入れた。一応女性である。彼女は初めて僕の部屋に来ることになったのだ。部屋に入ったとき、彼女は室内をぐるっと見渡して、いい部屋ね、とつぶやき、そのあと付け加えるように、あなたって、やっぱり几帳面なのね! と言ったのだった。
僕はショックでその場に固まったようになった。どうして彼女にそんなことが言えるのだろう。なぜ彼女はそんなことを言ったのだろう。この部屋の、こんな荒れ果てた部屋のどこに、この女は几帳面さを感じたのか?僕は彼女が来る前日ですら、ろくに片づけもしなかったというのに。こんなにあっさり見破られてしまうものなのだろうか………固まっている僕には目もくれず、彼女はソファに腰を下ろした。あるいはそれは単なる社交辞令だった可能性はある。でも僕の動揺はしばらくおさまらなかった。

彼女が帰ったあと、僕は誰もいない部屋のなかを意味もなくうろついたり、あるいは一つの地点に何もせずに立ち尽くしたりした。僕は自分が殻に閉じ込められていると感じた。その殻はきっとこの部屋と同じ形をしているに違いない。大きくため息をつき、そしてまた部屋の整頓をはじめた。