梅雨の旅

駅へ行き、最初に見つけた電車に乗り込み、終点で降りて、また別の電車に乗り換え、また終点まで。どの方角へ向かっているのかも知らないまま、いつしか住む街を遠く離れていた。旅の途中、天気はたいていすぐれなかった。太陽はめったに見えず、だからと言って雨が降るでもなく、日が差したかと思えばすぐにまた薄曇りに戻り、まるでどっちつかずの迷っているような天気で、まさしく僕の心境を体現していた。そうだ、僕もまた迷っていたのだし、その迷いを振り払うために、あるいは逃れるために、旅を決行したのだった。思い返してみれば僕が旅に出るとき、いつもそんな気分だった。いつも逃避的な気分でいた。人はどこかに行きたくて旅に出るのではない、逃げたいだけなのだ、日常から、思い煩わせる厄介な物事を一時的に放り出すために、旅立つのだ、少なくとも僕にとってはいつもそうだった。

景色を眺めながら、これまでに経験したいくつかの旅のことを、思い出していた。途中数分間ほど目を閉じていたら、いつしか眠っていて、目を開けると電車は知らない田園風景の中を走っていた。山と田んぼと点在する民家の他には何もない。さっきまで大勢いたはずの乗客はかなり少なくなっていて、車内はほとんど静まり返っていた。子供の頃、友人と旅行をしていて、今と同じように居眠りから目覚めたとき、隣に座っていた友人に、今どのあたりを走っているのか、と尋ねてみたところ、友人は「京都」と答えた。そのときのことを思い出していた。僕は友人の答えを信じたのだが、それはすぐに嘘だとわかり、正確にどこだったかは忘れてしまったが、とにかく京都ではなくて、乗車した下関駅から、まださほど離れていないあたりを、電車は走っていたはずだ。でもあの嘘はいい嘘だった。あのとき僕はどこかで疑いながらも、本当に今京都にいるのかもしれない、と思えたのだし、そう思って車窓の外の景色を眺めると、何となく異国情緒を味わうこともできたので、その気分は悪くなかった。

しかし今回の旅は子供のころのように愉快な旅ではない。駅に着いて電車が停まり、乗客は立ち上がって出口へ向かう。そのなかに一人の老婆がいて、それはどこか奇妙な気品をたたえた老婆で、何だか年老いた妖精みたいで、その姿を何となく目で追ううち、気がつくと僕もまた立ち上がって、誘われるように、老婆のあとをつけるように、電車を降りていた。本当は終点まで乗っているつもりだったので、それは予定外の行動だったのが、でもどうせ行き当たりばったりの旅行なのだし、どこで降りたってそんなに違いはない。

でもホームの人混みに紛れると、老婆の姿はどこにも見えなくなってしまい、そのまま何となく人の流れに合わせて歩いていると、電車も走り去ってゆき、僕は何だか取り残された気分だった。かなり大きな駅で、意外と都会だった。駅を出ると外では雨が降っていて、その雨降りの中で大道芸人みたいな人が、駅前の広場のような場所でギターを弾きながら歌っていた。人々は傘をさしてその前を歩き過ぎている。それは聞いたことのない外国語の歌だった。

宿を探さねばならない、と僕は思う。スマートフォンを取り出してホテルを探そうとして、すぐにやめてしまった。予約したりお金を払ったり、そうした一連の手続きのことを考えるとひどくおっくうになった。公園のベンチで夜を明かすほうがまだましだと思えた。そうだ、それは悪くない。何しろ一度もそんなことはしたことがない。野宿なんて考えたこともない。未体験ゾーン。僕は公園を探して歩き出した。