なぜ彼女は去ってしまったか

彼女が道路を歩いてくる。私はカーテンの隙間から一眼レフのレンズでその姿を捉える。彼女は男と並んで歩いていた。彼ら二人の様子は、単なる友達にしては明らかに親しすぎた。その男は、2日前にやはり彼女が親しそうに並んで歩いていた男とは別人だった。彼女にはそんな風に親しくている男性が、少なくとも3人いる。私は何度もシャッターを押す。
二人の姿が建物の陰に隠れてしまったので、私は窓辺を離れ、部屋から外に出た。アパートの廊下の柵から身を乗り出すと、階下の様子がうかがえる。彼女の部屋は私の部屋の真下なのだ。やがて階段を上がってくる足音と、話し声が聞こえてきた。彼女は先ほどの男とまだ一緒なのだ。そのまま彼女と男は部屋に入っていった。ドアを開閉するとき、いつもの軋む音が聞こえた。彼女の部屋のドアの蝶番は独特の音を立てる。それは私が眠っていても飛び起きる音である。
私は自室に戻り、床に耳をつけた。下の音がかすかに聞こえる。話し声と笑い声、会話の内容までは聞き取れない。ああ、彼女の澄んだ声!その甘美な響きは私の胸を締め上げる。彼女は私に聞かせるためにわざと楽しそうな声を発している。そのことは明らかだった。彼女の目的は私を嫉妬させることなのだ。その日、彼女が部屋に招きいれた男は、夜遅くまで彼女の部屋にいた。


大学に入学してすぐ、彼女は恋人を作った。同じ大学に通う彼女と同い年の男子学生だった。よく彼らが二人で自転車に乗ってどこかへ出かけるところを見かけた。ところで彼女はその赤い自転車を高校時代からずっと使っている。駐輪場に置かれていた彼女の自転車の前輪のフェンダーの部分に、高校の名前と、彼女の氏名が記されたシールが貼られていた。私はそれによって彼女の名前を知ったのだ。
彼女が駐輪場で、恋人の男性と抱き合っているところを目にしたこともある。彼らは人が来ないかどうかしきりに気を配りながら、口づけを繰り返していた。
恋人の男は別にハンサムでもなく、どことなく地味だった。さほど魅力のない男だった。彼女がその男に対して本気でないのは明らかだった。それはフェイクの恋人なのだ。彼女は私を嫉妬させるために、どうでもいい男と交際の真似事を行っているに過ぎない。そうでなければわざわざ駐輪場でいちゃつく理由がない。彼女は中学生や高校生ではなく、一人暮らしをする学生なのだから、自分の部屋でいくらでもできるはずなのだ。つまり彼女はその様子を私に見せつけたかったのだ。私がカーテンの隙間からその光景を盗み見ていたことも、彼女は知っていたはずだ。そうやって私の心を煽り掻き立てようとしていたのだ。彼女はそういう意地悪な、残酷な一面を持つ女性である。そしていうまでもなく、そうした性質もまた彼女の魅力の一部なのだった。


親しくしている複数の男性のうちの誰に対しても、彼女が本心から夢中になっているわけではないことは明らかだった。彼女の心はずっとただ一点にのみ向いている。つまり私に向いている。彼女は私を嫉妬させるためにあえて他の男性と親しくしている。そうやって私の心を傷つけようとしているのだ。彼女は残酷な性質を持ち主だし、私がその残酷さに惹かれていることを知っている。彼女は素直でないので、そういう回りくどいやり方でしか、私の気を引くことができない。彼女のそんな奥ゆかしさ(もしそう呼んでよければ)が、私を夢中にさせる。
確かに彼女の目論見通り、私は嫉妬した。しかし同時にその感情を楽しんでもいた。私が嫉妬することを彼女が望んでいるというその事実が、私を喜ばせてもいたのだから。

ときどきアパートの廊下や階段などで、彼女とすれ違うことがあった。そんなとき、私が声を掛けても、彼女は必ず無視した。目も合わせなかった。顔をしかめて走り去ることさえ何度かあった。彼女はそこまで徹底していたのだ。いつどんな場合でも、私たちの間にはいかなる接点もないのだという演技を崩さずにいた。


知り合って1年が過ぎ、彼女を撮影した写真は10000枚を超えた。友人と談笑する彼女、公園の小学生にボールを投げ返す彼女、にわか雨に見舞われてびしょ濡れになった彼女、そうした写真が一年分、私のパソコンのハードディスクに収められている。廊下から身を乗り出すのと同じ要領でベランダから階下を覗くと、ときどき彼女の洗濯物の一部とか、干している布団とかが見えることがある。私はそうしたものも写真に収めている。

大学の春休み期間中、彼女は長く部屋を留守にしていた。おそらく故郷の山口県萩市に帰省していたのだろう。私はもどかしい気持ちで彼女の帰りを待ちわびていた。しかし春休みが終わっても彼女は帰ってこなかった。ゴールデンウィークを過ぎ、梅雨が明けても不在のままだった。一日中床に耳をつけていても、蝶番が軋む音は聞こえない。赤い自転車はずっと駐輪場に放置されていた。夜になっても部屋に明かりはつかなかった。でも窓にはカーテンがかかっていて、物干し竿もかかっていたので、引っ越してしまったわけではないらしい。
そのまま大学は夏休みに入った。いぜんとして彼女は戻ってこない。彼女がいなくなってから、私の生活は支柱を失ってしまった。彼女の大学への行き帰りを見張っていた時間がすっぽり空白になってしまい、その時間にすることが何もないので、時間を埋めるために酒に手を出すようになっていた。仕事をする気にもなれず(言い忘れていたが、私の仕事は童話作家である)酒におぼれながら怠惰な日々を過ごした。彼女のことを考えると胸が刺すように痛んで何もできないのだ。酒を飲んでいないときにはひたすら眠っていた。
ときどき階下に降りてインターフォンを押してみたりしたが、応答はなかった。

8月の終わりごろのある日、いつものようにアパートの下から彼女の部屋を見上げたとき、窓にカーテンが掛かっていないことに気づいた。物干し竿もなくなっていた。それらのことが何を意味するのかは明らかだった。 彼女は部屋を引き払ったのだ。彼女はアパートを出て行ってしまった。でもいつの間に?私は一日中部屋にいて、常に階下の気配をうかがっていたのだ。引っ越しが行われているような騒がしい物音は一度も聞こえなかった。私が泥酔して眠っている間に、作業は行われたのだろうか?私は彼女の部屋の前まで行き、インターフォンを押したり、ドアをノックしたりしたが、やはり何も起きなかった。
その夜も飲んだくれて過ごした。悲しみと憂鬱、そして気まぐれに襲いかかる激しい怒りにとらわれていた。どうして彼女は何も言わずに消えてしまったのか?どうして私に断りの一つもないのか。いくら性格が残忍だからといって、そこまでする必要があるのか。彼女にとって私とはその程度の存在だったのか……私は思わず壁を殴りつけたり、かかとで床を蹴ったりしていた。ときどきわけのわからない叫びや唸りを発し、意味もなく笑ったり、泣いたりした。そして気絶みたいな眠りに落ちた。


そんな日が何日か続いた。
ある朝、聞き覚えのある音で目を覚ました。それは私が最も愛していた音、すなわち彼女の部屋のドアの蝶番がたてる軋みの音だった。彼女が戻ってきたのだ!私はベッドから飛び起き、部屋を出て階段を駆け下りた。階段の段差のところに隠れて様子をうかがうと、彼女の部屋の前に人影が見えた。中年の男女と、スーツを着た男性がいた。スーツの男が部屋のドアに鍵をかけるところだった。その男はおそらく管理会社の人間で、中年の男女は彼女の両親だと推測した。おそらく退去時の最後の確認だろう。しかし彼女の姿はない。なぜ彼女はいないのだろう?大学生が部屋を引き払うとき、本人は不在で保護者のみが立ち会うというのは、一般的なこととは思えない。やはり彼女に何かあったのだろうか。
三人が部屋の前を離れ、階段のほうへ向かってきた。私は廊下に降り、彼らの前に立った。三人の目が一斉に私に向いた。

レイコさんはお引越しされたのですか、と私は声をかけた。
彼らは三人とも、どことなく驚いたような顔をしていた。母親の女性が、ええ、と答えた。
レイコさんに何かあったのですか、と私は言った。
彼らは数秒間ほど黙っていた。父親らしき男性が、見えないほどわずかに眉をひそめた。管理会社の男が丁寧な口調で、しかしどこか不審そうに、失礼ですがどちら様で、と尋ねた。
私は名乗った。
あの子のお知り合いですか、と父親の男性が尋ねたので、私は彼女との関係について語った。そして私がいかに彼女の身を案じていたかについてできる限り誠実に話した。しかしどういうわけか、私が喋れば喋るほど、彼らの不審の色は濃くなっていくようだった。彼らはほとんど犯罪者を見るような目で私を見ていた。それで私は自分がひどい格好をしていることに思い当たった。着ていたパジャマは何日も洗濯していないし、髭は伸びっぱなし、髪は起きたときのままぼさぼさ、おそらく酒の匂いもしていたはずだ。
彼らはろくに私の質問に答えず、その場を去った。結局彼女についての情報は何も得られなかった。

 

彼女は電話番号もメッセージング・アプリのIDも教えてくれていなかったので私にはなすすべがなかった。何度となく本名をインターネットで検索したことはあるが、彼女の本名はひどくありふれた名前だったので、同姓同名の人物がいくつもヒットして特定できなかった。

私はまた酒におぼれて過ごしていたのだが、ある日ひとつの考えが浮かんだ。彼女に手紙を書くのだ。私は彼女の新しい住所を知らないが、彼女に手紙を届けることは可能だということに思い当たったのだった。つまり彼女の旧住所であるこのアパートの、彼女が住んでいた部屋番号宛に、手紙を出せばいいのだ。彼女が住所変更の手続きを行っていれば、旧住所宛ての郵便物は新住所へ転送される。彼女はおそらく手続きを行っているはずだ。彼女はそういうことを怠るタイプではない。つまり私の手紙は、郵便局が勝手に彼女のもとへ届けてくれる。

この思いつきに私は興奮した。さっそく私は近所の文房具屋で便箋と封筒を買ってきて手紙を書いた。彼女に宛てて言葉をつづるのは考えてみればはじめてで、そのことも私を浮き立たせていた。彼女がいなくなって以来、どれほど私が辛い日々を過ごしていたかを、あまり悲痛な調子にならないように、それでも思うところは余すことなく文章に込めた。手紙を書いている間、私は失意から立ち直っていた。希望に満ちた気分でさえいた。私たちの関係はまだ壊れていない、それはそんなにたやすく崩れ去ってしまうほど脆弱なものではないはずだし、そうあるべきものでもないのだ、と自然に信じることができた。

書き上げた手紙を便箋におさめて封筒に包み、家の近くのポストから投函した。すぐには返事はこないかもしれない。しかし私に焦りはなかった。彼女が手紙を受け取り、文章を読むところを想像するだけで、心が羽が生えたみたいに軽くなる。この幸福な気分は長く持続しそうな気がした。