海底都市の魚

倒壊した建物群の隙間を走る街路にはあちこち大穴が開き、看板や標識の文字は薄れて読み取ることもできない。折れたマストや錆びた鉄の塊、生き物の骨やジュラルミンの欠片などといったがらくたが、いたるところに転がっている。尖塔のてっぺんに嵌め込まれた大時計は同じ時刻を指したまま動かない。ここは遠い昔に海底に沈んだ古代都市の遺跡。かつてこの都市に文明を築いた種族はとうに滅び、栄華の名残はもう少しも残っていない。今では一匹の魚だけが唯一、この海底都市を棲家としていた。
それは大理石のように肌理の細かな鱗に全身を覆われた、イルカに似た大きな一匹の魚だった。今、その魚は建物の隙間をかいくぐりながら、街路を凄まじい速さで駆け抜けている。そしてまたたく間に都市を一周する。魚は同じルートを何度も周回する。迷路のように入り組んだ順路を、可能な限りの速度で駆け抜けるのだ。魚はそんな孤独なレースを日々繰り返していた。そうやって何年もかけて何度となく同じルートを通過するうち、泳ぎの技術は目覚ましく洗練され向上していった。今では建物壁や柱などの障害物に一切ぶつかることなく、無駄なく最短距離を選びながら、またたく間に都市を一周することができる。
最後の周回を終えたとき、魚は街で最も高い場所にいた。それは柵で囲われた石畳の広場で、片隅には奇怪な形の彫像が鎮座している。複数の触手のような脚と鳥のように大きな翼を備えた、ある奇怪な生物をかたどった彫像だった。滅びた海底都市においてその彫像だけが唯一崩壊を免れて在りし日の姿を今もとどめていた。彫像の胸の下あたりには三角形を2つ重ねた小さな印が刻まれている。魚の背中にもそれと正確に同じ形の刻印があった。
いつもの習慣として魚は彫像の周囲を円を描くように泳ぎはじめた。泳ぎながら魚は何度か口を開いては閉じる。その口からある音波が生じて海水を伝わり、海底都市を包む目に見えない膜の内部に響きわたった。その膜こそがこの都市を、あの地球上を征服した野蛮で高度な知性を備えた種族によって発見されることから防いでいる。そして魚が唱えた呪文によって膜は更新され、その強度を回復した。いつかその音波が深海探査艇の水中聴音機に傍受される時は来るかもしれない。しかしいまのところ、その音はまだ聴覚を備えた生物の耳に届いたことはない。
魚は泳ぎながら少し眠り、目覚め、また眠った。つかの間の休息を終えると魚は浮上を開始する。海の底の都市から一直線に、ミサイルのような速度で上昇し、すぐに海面近くにまで達すると、そのまま海から飛び出した。月明かりの夜空に宙を舞う魚のシルエットが浮かびあがった。青白い満月に向けて吸い込まれるように飛び、頂点でゆるやかなカーヴを描いた直後、ほんの一瞬だけ魚は空中に静止した。まるで時間が止まったみたいだった。しかし時間は動いている。遠くに光る小さな黄色い光は、闇夜をゆるやかに滑っている。
やがてまた重力が魚をとらえた。魚はゆっくりと落ちてゆく。ところどころ銀色にきらめいている海面が、静かにその落下を受け止めた。音もなく、飛沫さえほとんど立たなかった。