2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧

海にて

長い距離を泳いで、ハルは崖の下にたどりついた。海岸から遠く離れ、海水浴客は黒い点のように見える。それらの点のうち、どれが自分の妻と子供たちなのか、見分けがつくはずもなかった。崖はおよそ20メートルほどの高さがあって、斜面はほとんど垂直だった…

氷の腸

夜中、彼はその家に忍び込んだ。浴室の窓ガラスが割れていたので、その穴から手を差し込んで簡単に鍵を開けることができた。そのことからもわかる通り家は荒廃しきっている。夜になっても家に明かりがともることはない。しかし空き家というわけではない。ず…

海へ

海水浴場は思ったほど混雑していなかったのでよかった。僕は水上スキーをやりたがる子供たちにそれをあきらめさせ、代わりに子供用のサーフィンボードを買って、それで遊んだ。子供用のサーフボードというものがちゃんとあるのだ。水が嫌いな弟のケイも、意…

穢れた揺り籠

受胎の時点であらゆる意味で穢れていた赤ん坊は夜半過ぎにようやく母体を脱した。母親は産み落とした直後に死に、その死は誰にも惜しまれなかった。産婆たちは新たに生まれた生命を祝福しようとしない。それどころか呪った。誰もが穢れた赤ん坊の顔を見た途…

レモントルネード

彼の名前は立間檸檬といって、もちろん本名である。でもテストの時などには名前欄に立間レモンと書いた。自分の名前は画数が多すぎると思っていたからである。あるときレモンは学校の教師に、名前欄にはカタカナではなく漢字で正確に名前を書くべきだと叱ら…

夜の龍

水面に手のひらを置き、撫でるみたいにゆっくりと動かす。水は夜の闇と冷気をたっぷりと吸い込んでいる。黒い水は皮膚を通過して肉に染み入り、全身に広がってゆき、あたりの闇はいつしかさらに濃く、深くみっちりと凝縮されている。ある気配が鈍い風のよう…

残酷な話題の時にだけ彼女の頬に浮かぶえくぼ

彼女の頬は白くすべすべして大福のようにつるんとしているのだが、話題が残酷な内容の事柄に及んだときに限り、そこに薄いくぼみが生じる。それはえくぼと呼んでもよく、実際のところ、彼女が笑顔らしき表情を浮かべるのはそんなときだけだった。見えないほ…

鯉のぼり

風のない午後、ポールにぐったりとへばりついた季節外れの鯉のぼり。一人の少年がそれを見上げている。彼は風を待っているのかもしれない。ナイロン製の大きな鯉が空にはためくさまを思い浮かべているのかもしれない。確かに鯉のぼりというやつは、風がなけ…

炎の中で花開くもの

取り囲みそびえたつ火柱のはるか上空から音が聞こえる。……火がはじける音ではなかった。人の声だった。誰かが歌っている。空を焦がす炎よりさらに高いところで歌う人がいる。女の歌声だった。歌詞は聞き取れない。それは日本語ではなく、どんな国の言語でも…

誰が彼を殺したか?

男が死んだ。よく知っている男だった。私はその男のことを殺したいほど憎んでいた。何度となく想像の中で殺したことがある。私がその想像を実行しなかったのはそれが犯罪だからではない。殺すだけでは飽き足らないことがわかっていたからだ。殺しても憎しみ…

人面アザラシ

海で釣りをしていたら、岩の上に何か動くものを見つけて、それはどう見てもアザラシだった。僕は驚いて目を疑った。こんな西日本の海に野生のアザラシなどいるはずはないし、それにそのアザラシはひどく変わった形をしていた。つまり顔の部分が人間にそっく…

墓地をくぐり抜ける

頭の中で鳴り響く『クープランの墓』、その音符を追いながら、僕は丘の上の墓地に足を踏み入れる。狭い入り口はほとんどケモノ道のようで、人の侵入を拒む雰囲気がある。墓地は妙に広い。山の中の一角を適当に切り拓いてそこに適当に墓石を並べたといった墓…

灰色の川について

彼の家の外壁と塀との間には、幅30センチほどの狭い隙間があって、そこには雨が降ると水があふれる。彼はそれを個人的に灰色の川と呼んでいた。コンクリートの地面も家の壁も塀もすべて灰色なので、水が灰色に見えるのだ。雨の日に窓辺にたたずんで、その小…

雲が赤く染まる時

雲を貫く山のてっぺんに、城のようにそびえる大きな家。男はそこに一人で住んでいた。妻は先立ち、子供は死に、日常的に彼が接するのは家政婦の老婆だけ、彼は多くの時間を孤独に過ごした。家からは雲を見下ろすことができる。時には目に見える景色のすべて…

僕たちは爆弾が降る街で再会した

再会するなら偶然会うのがいい、と思っていた。SNSを通じてなどもってのほかだし、同窓会とかでもなく、たとえば昔通った懐かしい道端で、街角で、こっちだけ気づいて向こうは気づかずにすれ違ったり、あるいは両方とも気づいていながら、なぜかわざとお互い…

あるちょっとした炎上の思い出

ずっと以前のこと、ブログに投稿した文章が原因でちょっとした炎上みたいになった。僕は自分のブログであるミュージシャンを批判したのだ。誰かがその文章をある掲示板にコピーアンドペーストして投稿して、それがミュージシャンのファンの怒りを買ってしま…

几帳面な部屋

僕の部屋に入ったことのある人はみな、僕のことを「几帳面」な性格だとみなす。それほど僕の部屋は綺麗に整頓されているらしい。でも僕は決して、几帳面なわけではない。ただ単に、頻繁に部屋を整頓する習癖があるというだけだ。ひどく憂鬱な気分のときとか…

山から下りてきた異常な人物

犬の散歩のとき登山口の前を通りかかったら、山から人が降りてくるところだった。もちろんそれ自体は驚くようなことではないのだが、僕は思わず足を止めた。その人影は明らかに異常だった。どう見ても山を歩く人の服装ではないことが、遠くからでもわかった…

プール遊び

今日は庭にゴムのプールを置いて子供たちを遊ばせていた。娘が弟にどんどん水をかけて、水が苦手な弟はひどく嫌がって逃げ回っていた。あんまりいじめちゃだめだよ、と僕はいさめたのだが、娘は弟を水に慣れさせないといけない、という使命に燃えていて、ひ…

砂場の子供たち

幼稚園のすぐ正面にある公園は、かつては園児の運動場としても利用されていたのだが、この度幼稚園が閉園になるにあたり、遊具もみんな取り払われてただの空き地になった。片隅にある砂場だけが、なぜか残されていた。あるときからその砂場に子供がおおぜい…

同じ本を何度も読む人

彼は同じ本を何度も読む。一か月の間に一冊の本を、たいてい25回から30回読み返す。ページ数や内容によってその回数は前後する。だから彼が一年の間に読む本は12冊程度に過ぎない。そうした読書のやり方を、彼は22歳の時から、40歳になる現在に至るまで続け…

秋吉台へ

思い立って秋吉台秋芳洞へ。朝5時42分の始発に乗り、美祢駅に着いたのは7時前。でも秋芳洞行きのバスが来るのは8時15分。仕方がないので駅の周り歩き回って時間をつぶした。平日なので高校生が多い。バスが来たので乗る。そして目的地へ。 平日の朝一番なの…