嵐の午後の音楽

黒くて小さな物体が、すごい早さで窓の外を横切っていった。あまりに早すぎて何だったのかもわからない。強風がいろんなものを吹き飛ばしているのだ。山のそばに建つ、引っ越してきたばかりの古い家ではじめて体験する嵐は怖ろしかったが、僕はどこかそんな状況を楽しんでもいた。これまで都会で体験してきた嵐とは違って、このむき出しの無添加の嵐は大地の怒りのようなものを感じさせる。こんな嵐が地球では太古の昔から何度となく繰り返されてきたのだと思うと、どこか宗教的な気分にもなった。
壁がめきめきと音を立てて揺れている。ことによると本当にこの家は壊れてしまうかもしれない。やはり避難したほうがいいのだろうか、と考えていると、暴風の轟音の向こうから、風の層を貫くようにして、風とは異なる、それよりずっと高い音が聞こえてきた。家の外の、どこかそれほど遠くないところから、その音は生じたらしく思われた。音は一度きりで終わらず、途絶えたかと思うとすぐにまた起こり、短い休止を挟みながら何度も繰り返された。
僕の耳にはそれは人間の女の悲鳴のように聞こえた。声を枯らすようなけたたましい女の金切り声。
こんな大嵐では何が起きても不思議ではない。誰かが悲鳴をあげるような事態が生じる可能性は十分にありうる。あんなに何度も声が上がるということは、何か深刻なことが近所で起きているのかもしれない。それは本来なら聞いた途端に恐怖で凍りついてしまいそうな真に迫った凄まじい悲鳴だった。それなのにどういうわけか、僕はその声を聞いても不思議なほど冷静だった。驚きもせず、怖くもなかった。僕が何も感じなかったのはあるいは、その悲鳴が奇妙に嵐と調和して聞こえたせいかもしれない。荒れ狂う暴風と断続的な悲鳴とが形作る、不規則で非日常的な音の重なりは、僕の耳にある種の音楽のように響いていた。人の生理をざわつかせるような、破壊的で極端で異常きわまる音楽。そしてそれは、今世界でただ自分一人だけが耳にすることができる音楽でもある。この時間が過ぎればきっと二度と聞く機会は持てない。
僕はソファに横になって目を閉じ、音に耳を澄ませていた。自分でも意外なことに、そのまま眠り込んでいた。

目覚めると夕方になっていた。相変わらず風は吹き荒れていたが、悲鳴はもう聞こえなかった。
夕食と入浴を終え、夜中ベッドにもぐりこむころには、耳に残っていた悲鳴の記憶はだいぶ薄れていた。嵐のほうは弱まる気配もない。