2022-06-01から1ヶ月間の記事一覧

踊る二人の対話

そういや先週はどうなったの。とAが尋ねた。行かなかったよ。とBは首を振った。行ったって聞いたのにな、行ったんだと思っていたよ、とAは意外そうに目を丸くした。そうさ、行くつもりだったんだ。でもちょっと事情があってね。とBはため息をついた。何があ…

梅雨の旅

駅へ行き、最初に見つけた電車に乗り込み、終点で降りて、また別の電車に乗り換え、また終点まで。どの方角へ向かっているのかも知らないまま、いつしか住む街を遠く離れていた。旅の途中、天気はたいていすぐれなかった。太陽はめったに見えず、だからと言…

線を引くこと

その日、仕事は芳しく進まなかった。僕は規則正しく仕事をするたちなので、そうしたことは珍しい。大きく調子を崩すといったことがない。進捗の具合も規則正しいのだ。毎日規定の分量の仕事をこなす。僕は電化製品のマニュアルや機械製品に付属するマニュア…

遅くなる世界

丘の上から夕陽を眺めていると、ときどき時間が遅くなる。太陽は水平線の向こうに少しずつ隠れてゆくのだが、その途中で地球の自転がゆっくりになるのか、ぎらぎらする赤い領域はいつまでも同じ面積を保ったまま、なかなか狭まらない。まるでそこにとどまり…

夜の音楽室

小学校の前を通りかかったとき音楽が聞こえた。ちょうど音楽室があるあたりから、オーケストラの音色が響いていた。その演奏は滑らかで、それでいて引き締まっていて、乱れたりゆるんだりした部分がどこにもなく、どう聞いてもプロだった。それを伴奏にして…

父について

部屋のスピーカーから音楽が流れる。ジョルジ・リゲティの『ロンターノ』。ハルはその曲を聴くと父を思い出す。そして同時に、父がいつも四六時中ひっきりなしに吸っていた煙草の煙の匂いも。父の部屋ではいつも煙がもうもうと立ち込めていて、そしてたいて…

個人ブログを読むこと/書くこと

昔はよく個人ブログを読んでいた。2008年とか2009年ごろのことである。赤の他人の見ず知らずの人たちによるいろんなブログを、RSSリーダーに登録して。ただの平凡な日記みたいなブログから、専門的な技術ブログまで、いろんなブログがあった。 今は以前ほど…

孤独なタイムスリップ恐竜

檻のように連なる樹木の向こうに浮かぶ巨大なシルエット。その姿はあらゆる緑が支配する森の中にあって、周囲からくっきりと際立つ砂の色。一頭の恐竜が首を思い切り伸ばしながら、まるであたりを見回すみたいにしている。でもその長い首をもってしても森の…

海へ行く約束をする

土曜日には妻が息子のケイを病院に連れて行っていた。息子は急に熱を出したので、コロナじゃないかと僕たちは心配してなおかつ怯えていたのだったが、風邪だということだったので安心した。ケイは寝相がとても悪く、すぐ掛け布団をどこかにやってしまうから…

雨の公園

長崎に旅行したときに買った一輪挿し。娘はそれがお気に入りみたいで、しょっちゅう眺めている。彼女はガラスとかビー玉とか透き通ったものが好きらしい。それ、ユイにあげようか、と僕が言うと、娘は目を輝かせて僕を見上げ、本当、と言った。本当だよ。あ…

彼の空腹

テーブルに向かって彼はイチゴを食べていた。ブドウも食べた。リンゴもあった。みかんも。要するに果物を食べていた。相当にたくさんの果物を、半ば一心不乱に。恐怖から逃れたいとき、彼はそうやってひたすら食べる。別に果物に限らないのだが、そのときに…

海溝のグランド・ピアノ

海に沈み、沈み続けたグランド・ピアノは今、海溝の入り口に達した。暗い巨大な裂け目は音もなく口を開けて待ち構えている。海の生き物たちはそれに一切興味を示さない。彼らはピアノのことなど知らない。その精緻な構造、それが可能にする多様な表現力、そ…

あなたの空は私の空より暗い

東欧を思わせる街並みは美しくはあったが陰気だった。僕はこの街を住む場所として選んだ自分の判断を早くも後悔したい気分になっていた。前に訪れた印象では、良さそうな土地に思えたのだ。端正でもの静かで機能的な、いかにも住みやすそうな町。どうして今…

大きな蛾が、けたたましく羽音を響かせながら、顔のすぐ上を飛び回っている。旋回したり、ホバーしたり、上昇と下降を繰り返したりしている。虫はそうやって僕を苛立たせて楽しんでいる。その丸々太った胴体は毒々しい色をたたえ、羽には胸の悪くなるような…

バイクのエンジン音

山奥の小さな池の水面に朝もやが立ち込めている。その白い分厚いもやを切り裂くように、遠くからエンジン音が響いた。まだ夜も明けきらない時刻、この場に不似合いなその音は、山に住む生き物たちの眠りを破った。 音は近づいてくる。用心深い動物たちは草木…

鳥か何かの鳴き声

ひとけのない広場で、ベンチに横たわって昼寝をしていたら、鳥の声で目が覚めた。すぐそばにある大きな木の枝に鳥が大勢とまっているらしい。まるで世界中の鳥が集まっているのではないかと思うほど、多種多様な鳴き声がそこにあった。それらがひとかたまり…