2022-10-01から1ヶ月間の記事一覧

雪の散歩道に消えた彼

Burzum『Tomhet』に寄せる 私たちは森の散歩道を歩いていた。あたりには雪が深く降り積もり、吹き付ける風は冷たい。遊歩道は森を貫いて私たちの眼前に真っ直ぐに伸びて湖まで続いている。さっきから彼の態度がどことなくよそよそしい。そのことを指摘すると…

地平の果て

春休みの最初の週末、家族で鳥取の砂丘に旅行に出かけた。視界にめいっぱいに広がる地平線はなだらかな曲線を描き、濃いインクみたいに青い空との境目は、目がおかしくなるほどくっきりしている。あそこまで行こうよ!と息子のケイが地平線を指さして叫んだ。…

目が覚めたとき彼女がいなかった

目を覚ましたとき、ナナタンはいなかった。朝の6時過ぎだった。僕はベッドで横になったまま、しばらくぼんやりしていた。遠くで電車の車輪と線路が擦れる音がして、それを聞いたとき、なぜかわけもなく胸が高鳴るのを感じ、ベッドから降りて、室内を探し回っ…

最初で最後の交合

日差しが明るく地表を照らす、よく晴れた日曜日の午後に彼らは交わった。女は彼の上で傘が開いたり閉じたりするみたいな動きで揺れていた。病気のために衰弱した女の肉体は紙のように軽く、窓から差し込む日差しが逆光になって、表情は終始判然としなかった…

彼女の呪い

真夜中過ぎに女が言った。「あなたになら殺されてもいいような気がするわ」「そう」と男は答えた。女は彼女は病気で、さっきまではひどく呼吸を乱して苦しんでいたのに、今では別人のように安静になっていた。ベッドにうつぶせになり、肘をついて状態だけ起…

病気になったナナタン

ある日ナナタンが待ち合わせ場所に現れなかった。もっとも彼女は普段からあまり時間を守らないし、最大2時間半まで遅れたことがある。メッセージを送っても返信がないので、電話を掛けるとナナタンは出たが、声がひどくかすれていた。何かあったのかと聞くと…

ノイズキャンセリングで聴く武満

ノイズキャンセリング・ヘッドフォンをつけて横になり、音楽を再生する。武満徹の『アーク』。僕はうまく寝つけないときによく武満徹の音楽を聴く。かつて睡眠障害のようになって、夜なかなか寝付けずに困っていた時期があったのだが、そんなとき、『ノヴェ…

眠れない夜

夜うまく寝付けなかった。眠気がないわけではないのに、いつまで経っても眠りは訪れず、ただベッドの上で転がるばかリ。気持ちよさそうに眠っている妻や子供たちを見て、うらやましくてほとんど怒りさえ覚えた。午前3時過ぎに、ついに僕は眠ることをあきらめ…

高速バス

あるとき、僕は高速バスに乗っていた。車内は寝静まり、起きているのは運転手だけ。運転手は黙々とバスを走らせている。僕の座席からは彼の左腕しか見えない。ハンドルを握るその腕はときどき規則的に動いた。じっと見つめているとそれは生きている人間の腕…

雪の日の雪だるま

下関市では冬の間に一度か二度、雪が積もることがある。ある雪の日の午後、僕は二人の子供たちを連れて近所にある公園に出かけた。彼らが雪だるまを作りはじめ、僕もそれを手伝った。手袋をしていても雪に触るのは冷たかったが、子供たちのほうはどういうわ…

村上作品は謎めいています

村上春樹の小説を読んでいるとき、私はときどき昔のテレビゲームを思い出します。かつて90年代には、ゲームについていろんな都市伝説的な噂がよく飛び交っていました。たとえばある敵キャラクターが、条件を満たすと仲間になるとか、ある地点である動作を行…

夜中に食べながら村上春樹を読むこと

夜中、空腹のために眠れず、戸棚をあさっているとポテトチップスを見つけたので、本棚から『ダンス・ダンスダンス』を取り出して、それを読みながら食べた。ところでよく言われることだが、村上の小説は食事に合う(言われてないかもしれない)。夜中に何か…

結婚記念日

レストランは混んでいた。素敵なお店ね、と妻が言って、それで僕はその店について説明した。シェフが大学時代の知り合いで、彼は東京の調理師専門学校に通ったあと、レストランでの修業を経て、下関に店を開き、僕は以前から彼に、店に行くことを約束してい…

嬉しくないプレゼント

目を覚ますと枕元に赤い包装紙で包まれた大きな箱。開封すると中から人形が出てきた。男でも女でもない、子供でも大人でもない、歪んだ顔つきといびつな体型をした、およそ人間離れした異常な人物をモデルにしたような、体長30センチほどの人形がそこにあっ…

ネズミ女殺害

広場の片隅で、女がギターをかき鳴らしながら歌っていた。女はいかにも自分の歌声陶酔し満足しきっている人の歌い方をしていた。歌いながら目を閉じたり唇を震わせたりしていたし、リズムをわざとずらしたり、ハイ・トーンのときにわざとらしく声をかすれさ…

ネズミ女の名前

ある休日の午後、デパートの前の広場で小規模なコンサートが催されていた。僕らは買い物帰りに広場の前を通りかかり、息子と娘が興味を示したので、足を止めて観客の中に加わった。そのときステージ上では4人組のバンドが演奏していた。それはディープ・パー…

赤いエナメルのブーツ

赤いエナメルのブーツは玄関先で死んだ小動物みたいにぐたっとしていた。それはくまなく血に濡れたみたいに真っ赤だった。指先で撫でてみたが、赤いどろっとした液体が指に付着することもなく、表面はつるつるとして乾いていた。妻は長らくこのブーツを履い…

家にて

昨日の夜は、あなたはどこにいたのかな?、と朝起きてダイニングに顔を出したとき、妻が言った。昨夜、僕はナナタンのマンションから深夜に帰宅し、そのときすでに妻も子供も眠っていたので、昨夜は妻と顔を合わせる機会がなかったのだった。女の部屋だよ、…

白い部屋での一夜

部屋には香水と化粧品と何か花に似た香りが混じりあっている。家具も何もかもすべて漂白されたみたいに真っ白で、いつ来てもかまくらの中にいる気分になる。でも僕はかまくらになど入ったことはない。そんな部屋でその夜、僕はナナタンの手料理をごちそうに…

ヴェーベルンのコンサート

ある日新聞紙の片隅に掲載されたコンサート情報が僕の目を引いた。そのコンサートで演奏される予定の曲目は、すべてアントン・ヴェーベルンの作品だった。そして僕は長らくアントン・ヴェーベルンの音楽を愛好していたのである。ピアノ曲や歌曲、そしてあの…

大リザード殺し

砂浜を歩いていると大リザードがいた。それはちょっとしたウミガメ程度の大きさの、むくむくと肥ったトカゲである。大リザードは砂の上をのそのそと這って、こちらに近寄ってきたので、すかさず僕はポケットから大きなナイフを取り出し、その生き物の脳天に…

彼女の瞳には三日月が映っていた

上手ね。あなた画家なの。と女が言った。仕事で絵を描くことは多いが画家ではない、と男は答えた。 それは何の絵?何かの道具?架空の機械ですよ。僕が想像した機械。目的もなくただ作動するだけの機械なんです。すごく複雑な仕組みで、でも何の役にも立たな…

福岡へ

僕は仕事の打ち合わせのために福岡市を訪れていた。夜中、ホテルの部屋で眠っていたとき、物音で目が覚めた。太鼓を叩くような音を、聞いた気がしていた。しかし耳を澄ませても、そんな音は聞こえてこない。ときどき窓の下の道路を走り去る自動車の音と、そ…

殺す価値もない虫

王様は蝶の飼育を道楽としていた。城の庭の一角にビニールハウスを設け、しょっちゅうそこにこもっては蝶の繁殖と生育に没頭した。ある日王様は新しい蝶の生育に成功した。その蝶は異常なほど繁殖力が旺盛で、またたくまにおびただしい数に増殖した。それは…

午前5時の笑い声

あの結婚式の男から、窓の話を聞いた後、僕が窓辺で過ごす時間は増えたように思う。そうやってすぐに他人から影響を受けてしまう。でもさすがにまだ、半日窓辺で過ごしたことはない。この間自分で作った椅子は窓辺で時間を過ごす用途にぴったりではあった。…

理想の窓(結婚式場にて)

結婚式に出席した僕は退屈していた。しかし社会にはこういう退屈なイベントが満ちている。それから逃れたければどこかの山奥の穴倉で一人で暮らすしかない。しかし穴倉で暮らすのも悪くない気がする。子供のころ、しばしば僕はそんな夢想をした。森の奥に家…

新しい椅子

ソローの『森の生活』を読み返した。読み終えてまず思ったのは、新しく椅子が必要だ、ということだった。椅子を作ろう、と思った。思うだけでなく声に出してつぶやいた。「椅子を作ろう」(僕は非常にしばしば独り言を口にする)でもなぜ『森の生活』を読ん…

死ぬ時期(ナナタンとの対話)

ナナタンが言った。「昔、あなたは早死にするって言われたことがあるわ。へえ。10年後に死ぬ、って言われたの。しかも誕生日に、だって」「ひどいことを言う人がいるもんだね。「でも私、そんなに嫌じゃなかった。怖くもなかった。死が怖いのは、それがいつ…

ネズミ女を尾行する

ネズミに似た顔つきの女が、地下道でいつものように弾き語りをしていた。そのときオーディエンスは僕一人だけだった。すぐそばで見ると、女は思っていたより小柄だった。目の前に立っているのに女は僕にまったく視線を向けない。歌が終わって、僕は拍手をし…