知らない婦人

今住んでいる古い一軒家に引っ越してきたばかりのある夏のこと。部屋で本を読んでいるとドアをノックする音が聞こえた。僕は一人で暮らしていたので、ノックする人などいるはずはない。僕が考えを巡らせている間にドアが開き、女が部屋に入ってきた。それが婦人だった。婦人は全身をすっぽりと包む黒いローブのような衣服を身に着け、金眼鏡をかけていた。手にはコーヒーカップとクッキーを乗せたお盆を持っていて、彼女は何も言わずにそれを机の上に置き、そしてやはり何も言わずに出ていった。
クッキーは先日僕が購入して戸棚にしまっておいたものであり、コーヒーカップも僕が普段から使っているものだった。窓の外に広がる夏の空を眺めながら、僕は静かに混乱していた。つまり僕はあの女を知らない。なぜ勝手に部屋に入ってきてこうしてコーヒーとお菓子を置いて行かなくてはならなかったのかもわからない。
おそるおそるカップを手にとり口をつけてみたところ、それは何の変哲もないただのコーヒーだった。いや、普段僕が自分で作るのよりずっとおいしいコーヒーだった。特に体調が異変を起こしたりすることはなかった。もちろんクッキーにもおかしいところはない。

部屋を出て居間へ行くと、婦人がソファに腰かけてテレビを見ていた。テーブルにはコーヒーカップが置かれていたが、それもやはり僕が所有していた予備のカップだった。彼女はときどきカップを口に運びながら、ぼんやりと画面を眺めていた。ニュース番組がどこか遠くの外国で起こったある政変の模様を映し出していた。蝉の鳴き声にアナウンサーの無機質な声が重なる。見知らぬ女はごく自然に、まるで家族の一員のような態度でそこにいた。しかし僕は彼女のことを知らない。

それ以来、僕は婦人といわば同居している。僕は特に何事もなく婦人の存在を受け入れていた。自分でもどうしてそんなことができるのかわからない。あるいは僕は婦人の出現によって生活が不必要に乱されることを避けたかったのかもしれない。だからそれ以上ことをおおげさにすることもせず、こんなことはなんでもない、ありふれたことなんだと自分に思い込ませながら、あえて普段通りにふるまおうとしていたのかもしれない。
婦人は一緒に暮らすには特に害のない存在だった。しばしば奇妙な行動をとるし、気まぐれに現れたり消えたりもする。そうしたことは当初には僕を悩ませたものだったが、今ではもう慣れてしまった。