訪問者

当時、僕は大学生だった。ある日アパートで机に向かってレポートを書いていると、インターフォンが鳴った。立ち上がって玄関へ行き、ドアから魚眼レンズを覗いてみたところ、廊下には誰の姿もなかった。不可解ではあるが、こういうことは意外によくある。だから僕はさほど気にもせず、部屋に戻って改めて机に向かった。そのとき、レポート用紙の端が少し破れているのに気付いた。5センチほど小さな破れ目で、いつできたものかはわからなかった。おそらく何かのはずみに袖のボタンか何かが引っかかって破れたのだろうと考えて、僕はそのこともさほど気にせずに作業をつづけた。
10分ほどしてまたインターフォンが鳴った。少し迷ったが、僕はまた玄関に行き、同じようにレンズを覗いた。やはり誰もいない。そのあと部屋に戻ると机の上のレポート用紙にまた異変が生じていた。今度は何かのはずみや偶然で生じるような異変ではなかった。それは粉々に千切れていた。一枚のA4の用紙は、5ミリほどの細かな破片の寄せ集めに変わり果てていたのだった。明らかに人の手によって念入りに、執拗にちぎったような破れ方だった。破片は細かすぎてつなぎ合わせて復元することもできそうになかった。
僕はしばらくの間、混乱し途方に暮れていた。いろいろな考えが頭に浮かび、何をすべきかも判断できない状態にあった。僕は意味もなく部屋をうろついたり、窓から外を眺めたりした。
しばらく後で再びインターフォンが鳴ったとき、僕は弾かれたように駆けて玄関へと向かい、すぐにドアを開けた。そこにはやはり誰もいなかったが、廊下を見渡すと、階段へ続く角のほうへ向けて曲がろうとする何者かの影が見えた。僕は追いかけた。相手の姿は見えず、ただ足音だけが聞こえてくる。階段を駈け下りながら、「もし。すみません。待ってください」と呼びかけてみたが、足音が止まる気配はなかった。
階段を降り切ったとき、人影はもうどこにもなかった。僕はしばらくアパートの周辺をうろついたが、あの何者かがどちらの方角へ逃げたのかもわからなかった。妙に人通りの少ない日で、車も人も全く通りかからない。結局僕はあきらめて部屋に戻った。
千切れたままのレポート用紙が机の上に散らばっていた。僕は数分間ほど、それをじっと眺めてみたが、当然のことながら破片は二度と一枚の紙に戻らなかった。僕は紙屑をごみ箱に捨て、新しい紙にレポートを書き直した。