家政婦の変容

晩秋の日暮れ時、僕は一人で墓地にいた。血が滲んだ包帯を思わせる雲が赤い光を滴らせながら空いっぱいに薄く広がっている。緩やかな傾斜に沿って立ち並ぶ墓石の群れは夕陽に照らされて鏡のようにてかてかと光っていた。人の姿はなく、静かだった。風の音のほかには何も聞こえない。
友人の墓は墓地で最も高い地点に位置していた。運命が導くところによって、僕と同じ年齢の友人は、彼の一族の多くを葬ったある遺伝的な性質を持つ病気の犠牲となって、この世を去ってしまったのだ。僕は墓石に向かい黙祷をささげた。すると急に強い風が吹いてそれはひどく冷たく、身体が一瞬ぞくっと震えた。そして僕は友人の家に最後に滞在したときのことを思い出した。そうだ、あの時も季節は秋で、彼の家に到着したまさにその日には、今日のような冷たい風が吹いていた。

🏡

蔦の絡まる壁面、そこに並ぶ黒々とした不気味な窓、色褪せた屋根板、それが僕が招かれた家だった。友人は足を引きずるような歩き方で、ぎこちない笑みを浮かべながら出迎えてくれた。彼と会うのは学校時代以来数年ぶりのことだった。友人の様子にはすでに病が色濃くその悪しき影響を及ぼしているように見えたが、しかし言葉つきはしっかりしていたし、苦しげな様子もなく、昔と同じように屈託のない笑い方をした。何気ない会話を交わすうち、すぐに我々は同い年の友人同士の間にだけ生じる居心地の良さを取り戻していた。
我々は食堂でコーヒーを飲みながらぽつぽつと話をした。外では風が高い音を立てて吹き過ぎ、鳥の鳴き声や、猟銃のような音が遠くから聞こえた。しかしそれらの音はまるで自分とは関係のない遠い世界で起こる物音のように耳に届いた。古く大きなその家が分厚い殻として我々を外界から隔てていた。
家の中は人けがなく、不自然なほど静まり返っていた。友人の家族はすでにみな世を去っており、その家に残されたのは友人のほかには、住み込みの家政婦と一頭の飼い猫のみとなっていた。
向かい合って座る友人は、どこか呆然とした表情でを浮かべながら、ときどきコーヒーカップを口に運んでは、小さくため息を繰り返していた。そのとき、どこから現れたのか、女が影のようにそばを通り過ぎてドアを開けて食堂から出ていった。それがこの家の家政婦だった。
家政婦はいつもそうやってどこからともなく現われていつの間にか姿を消していた。動作がいやに機敏で、少し目を離しただけで意外なほど遠くに移動していたり、そうかと思えば気づかない間に背後に立っていたりもする。何を行うにも呼吸さえ止めているのではないかと思うほど静かなので、たいていすぐそばに来るまでその存在に気づかなかった。
どこをどれだけ探してもどうしても家政婦の姿が見当たらないことが一日のうち何度かあった。それでも友人が呼びつけるとすぐにどこからともなく現れる。
友人が家政婦に語り掛けるとき、その声はすぐそばにいるときでも聞き取れないほど小さかった。しかし二人の間では意思疎通は問題なく行われているらしく、家政婦は友人の指示通りにてきぱきと働いていた。

滞在の初期、僕はその家政婦に対して妙に興味が向いてしまい、友人にいろいろと尋ねた。友人が家政婦を雇い入れたのは二年前、唯一の肉親であった父を亡くした後のことであるということだった。面接に訪れたとき、彼女には住むところさえなかったという。「僕は彼女の境遇に対して共感のようなものを覚えたのかもしれない」と友人は言った。
しかし彼女は優秀な家政婦だった。そのことは雇い入れてすぐにわかったのだということだった。頭がよくて理解が早く、動作が俊敏で余計なことは口にしない。そして料理の腕前は相当なものだった。滞在中にふるまわれた食事は、すべて家政婦が作ったものだったが、確かにその味は素晴らしいものだった。

🐈

暗い家だった。家のあちこちの隅に暗闇が沈殿して固まっているみたいだった。その暗さが醸し出す陰鬱な空気に影響されたためか、僕は滞在が伸びるにつれて何となく無口に、無気力になっていくような気がした。友人のほうも決しておしゃべりな性質ではないので、いつしか二人の間にはしばしば沈黙が降りるようになった。
食堂や居間でそうやって二人で黙って時間を過ごしていると、どこかの暗がりから大きな身体をのそのそと引きずるようにして、真っ黒な猫が這い出してくる。ルビーというその猫は、まるで暗闇と同化するみたいにしょっちゅう影や暗がりの中に佇んでいた。物陰でじっとしゃがんでいるようなとき、その姿は黒いボールのようにしか見えない。ルビーは異常なほどの長生きで、すでに30年近く生きているということだった。人間で言えば150を超える年齢である。そのためかどこか普通の猫よりもどこか超然とした気高い雰囲気があった。愛想のない猫であり、まずこちらへ寄ってきたりすることはない。それでも時々気まぐれに、猫はその毛並みに触れることを許してくれた。その身体は柔らかく温かかった。僕が知っている他の猫と同じように。
家政婦がいるところには猫は決して現れなかった。その反対もまた同様だった。猫がいるところに家政婦はやってこない。僕は一度も両者を同時に目にしたことがなかった。それで僕の頭にある馬鹿げた考えが浮かび、そのことを友人に話した。ルビーと家政婦は同一人物なのではないか?すると彼はおかしそうに笑って僕の想像力をからかった。
もちろん僕だって真剣にそんなことを信じていたわけではない。しかし何日もその家で過ごすうち、その妄想がだんだん頭の中で膨らんでいった。
あの得体の知れない家政婦に、僕は妙に興味を覚えるようになった。家政婦があてがわれている部屋のドアの前に立って、耳をそばだててみたこともある。そこから何かの音が聞こえてきたことは一度もなかった。どれだけ耳を澄ませても一切何も聞こえてこないのだ。家政婦は普段からそれこそ猫のように静かに歩いたし、何をするときでも物音を立てたためしがなかった。食事の準備や掃除をするときでさえ音を立てなかった。
ドアに耳をつけて廊下に立ち尽くすとき、僕の心臓は後ろめたさのためにいびつなリズムを刻んでいた。そんな足元を、あの丸々太った黒猫がゆうゆうと通り過ぎる。丸く黒っぽい影として、それは薄暗い廊下を音もなく歩き去っていくのだった。

🌙

ある夜のこと、友人と僕は書斎で時間を過ごしていた。四方の壁を本棚に覆われた広くがらんとした部屋で、ところどころに古びた弦楽器や打楽器が転がっている。外では雨が降っていて、雨粒が屋根を叩く音がひたすら響いていた。
友人はソファに寝そべってギターを弾いていた。彼は即興で次々とメロディーを弾きだし、それは概して気の沈むような陰鬱な音楽ばかりだったが、暗い秋の雨の夜には格好の背景音楽だった。僕はコーヒーを飲みながらまたあの奇妙な家政婦のことを考えていた。こんな夜にはあの女はどんなふうに時間を過ごすのだろう?彼女は仕事を離れて一人でいるとき、何をして過ごすのだろう。あの黒猫がまた現れて、しばらくあたりをうろうろしたあと、部屋の隅にある机の脚に身を寄せるようにしてしゃがんだ。二人の人間と一頭の獣はそうやって薄暗い室内でしばらくそれぞれ物思いにふけっていた。友人は目を閉じたままギターを弾き続けている。彼はすでに眠っていて二つの手だけがひとりでに動いて音楽を演奏しているようにも見えた。長く見つめているとどことなく不安になる眺めだった。
僕は立ち上がって書斎を出た。そして廊下を歩いて例の家政婦の部屋の前まで行き、ドアに耳を近づけてみる。いつも通り物音はない。聞こえるのはしとしと降る雨音ばかりだった。しばらくそうしていると、暗い廊下の向こうに猫の黒い尻尾の影が浮かび上がるのが見えた。さっき部屋を出るときに、あの猫も一緒にドアをくぐったのだろうか? しかし見えたような気がしたその影は、一瞬にして暗がりに吸い込まれるように消えてしまった。僕はドアのそばを離れ、そちらに行ってみたが、猫はいなかった。
水を飲もうと思って食堂に入ったとき、僕はそこで意外なものを目にした。キッチンの小さな蛍光灯だけが灯ったその薄暗い室内で、家政婦がテーブルに突っ伏して居眠りをしていたのだ。一瞬何かの間違いかと思った。彼女がそんな無防備な姿を人前にさらけだしたことは一度もなかったからだ。しかし間違えようはなかった。それは紛れもなく家政婦だった。
あたりを見渡してみたが猫はどこにもいない。僕はそばにあったチェアに腰かけて、2メートルほど離れたところから眠る家政婦の姿を眺めた。彼女はテーブルに置いた両腕の上に横向きに頭を乗せていて、その顔は僕のほうに向いていた。目を閉じた彼女の顔は、照明のためか普段より黒ずんで見えた。死人の顔のようにも見えたが、彼女はちゃんと生きていた。静かな寝息が聞こえたし、背中がそれに合わせてかすかに上下していた。
そのとき僕が家政婦の顔から目を離せなかった理由は何だったのだろう? いうまでもなく家政婦は美しい女ではない。歳をとりすぎているし、額や目の下や口の両脇に深い皺が刻まれ、肌は濁った池のような色をしている。唇は乾燥してひび割れ、頬はこけている。眠る彼女は普段よりもさらに醜く年老いていた。僕がその顔を見つめてしまったのはそうしたことが理由ではない。ある何かが――ある異常な何かの兆しが、彼女の顔の上に表出していて、それが僕の目を釘付けにしていたのだ。これが本当にあの家政婦の顔だろうか、と僕は思った。すべての特徴は記憶にあるものと一致してはいる。しかしそれは明らかに同じ顔ではない。同じ顔だとは思えない。ある異常な、肉眼で視認できないほど緩慢で微細な変化が、彼女の顔を構成するそれぞれの部位を、さざ波のように侵しつつあった。
しかしあるいは何も起こっていなかったのかもしれない。それは単なる思い違いだったのかもしれない。困惑するほど醜い寝顔を目にして、単に動揺していただけなのかもしれない。僕は立ち上がり、流しに行って水道の水を飲んだ。そして何度か大きく深呼吸をしたあと、振り返ってまた家政婦のほうを向いた。これまで抱いたすべての印象が消え失せていることを期待しながら。ただの目の錯覚か何かであったことを願いながら。しかしもちろんそんな期待は打ち砕かれた。再び視線を向けたとき、変容はさらに進行していた。先ほどよりさらにあからさまに、ほとんど疑いの余地のないものになっていた。顔の輪郭が細まり、右目は歪み、唇は膨らみつつあった。頬に見慣れない大きな染みのようなものが現れて、それは少しずつ巨大化しつつあった。
家政婦の顔は別の顔へと変わろうとしていた。僕はある人間が別の何かに変容する過程を目撃していたのだ。
そんな異常な事態のさなかにありながら、その顔がいまだ家政婦のものだと認識できるだけの特徴を保っていることに、僕は驚いていた。そしてそれほどの救い難くグロテスクな変容に侵されていながら、家政婦が依然として何事もないように眠り続けていることも、僕を混乱させた。
僕はさらに待った。事態がより明確になるのをただ待った。しかし変容は気が遠くなるほど緩慢に進行したので、その工程が完了する前に、家政婦は目を覚ましてしまった。彼女は重たそうに上体を起こし、所在なさげに瞳をゆらゆらと動かした。その顔には異常な変容の徴候は残っていなかった。彼女は何にも変化することなくもとの家政婦のままもとどおりに目覚めたのだ。
そのあと家政婦は僕の姿に気づいた。そして何か言い訳のようなものをぶつぶつと口にした(その声はやはり僕には聞き取れなかった)。それから立ち上がってエプロンのしわを直すと、食堂から出て行った。

それ以来、僕は一度も家政婦の顔をまともに見ていない。またそこにあの奇妙な印象を見出してしまうかもしれないと思うと、どうしても直視できないのだった。家政婦の様子には変わったところはなく、普段通りに物静かに仕事をこなしていた。
僕はあの雨の夜に食堂で目にしたものついて友人に話そうかどうか迷いつつ、結局話さないままだった。

🍷

滞在の最後の夜、食堂で友人とワインを飲みながら、僕は一言だけ家政婦に言及した。――どうしてあんなに物静かなんだろうね。不自然なほどだよ。
友人は答えて言った。それこそが彼女の最も素晴らしいところなんだよ。彼女は、すべての行為を完全な無音のもとに行うことができる。不自然でも、異常でも、あれほど静かでいられる人はいないよ。彼女は得難い存在だよ。
彼女は得難い存在、その言葉が暗い室内にしばらく漂っていた。
その通りだと思うよ、と僕は同意した。


それからおよそ一か月後、友人は病の犠牲になって死の眠りについた。家は売りに出されたが買い手はつかず、半年後に取り壊されてしまった。家政婦と黒猫のルビーはそれぞれどこかへ消えてしまい、彼らを見つけ出す手立てはもうない。