土曜の午後のホワイト・マドレーヌ

帰り道で何度もその言葉を頭の中で繰り返していた。おそらく今日僕はどこかでその言葉を拾ったのだ。少なくとも今朝アパートの部屋を出たときには、そんな言葉は知らなかったはずだから。どこかに落ちていたその言葉を自分でも気づかないうちに拾ったのだ。そしてすでに今の僕は、その言葉のことのほかには何も考えられなくなっている。一つの言葉だけが思考を支配している。
アパートの部屋のドアをくぐった直後、僕は声に出してみた。ホワイト・マドレーヌ。それが問題の言葉である。言葉は文字になって暗いキッチンに漫画の擬音みたいに浮かんだ。僕はそれを読み上げる。ホワイト・マドレーヌ……。
それはいったい何なのか? マドレーヌならもちろん知っている。食べたこともある。でも僕は特にそのお菓子が好きなわけでもない。ホワイトなマドレーヌとはいったいどのようなものなのか、そんなものが実在するのだろうか。しかし実在するかどうかは大した問題ではなかった。僕はすでに明日の土曜日の過ごし方を決めていた。

次の日の朝、僕はさっそく材料と調理器具を買ってきた。バター、卵、砂糖、蜂蜜、薄力粉、ベーキング・パウダー、ホワイト・チョコ、ふるい、泡立て器、そしてマドレーヌの型を取るためのアルミ箔。そして調理に取り掛かる。卵をたくさん割ったり、バターやハチミツを温めてかき混ぜたり、薄力粉やベーキング・パウダー振ったりするうち、生地が出来あがった。ラップをかけて冷蔵庫に入れて生地を冷ましてから、モミジ形のアルミ箔に詰めて角皿に乗せてオーヴンレンジで焼く。
コーヒーを飲みながら一休みしたあと、30分後にオーヴンレンジから角皿を取り出す。生地の表面に綺麗な焦げ茶色の焼き目がついていた。熱を冷ます間に、ホワイト・チョコレートを湯せんで溶かした。そうしてどろどろになったチョコを、アルミ箔を外したマドレーヌにかける。マドレーヌはくまなく白く包まれた。まさしくホワイト・マドレーヌだった。そう呼ぶほかはない食べ物が目の前に出現していた。僕は不思議な気持ちになった。昨日までは頭をよぎったことさえなかったものが目の前にある。それは甘い香りがして文字通り真っ白だった。
角皿からお皿に移し替えて冷蔵庫に入れた。あとはチョコが固まるのを待つだけ。
午後になっていた。窓からは明るい日が差し込んでいる。とても静かだった。僕はまたコーヒーをカップに注いだ。