あるスパゲティの誘惑

土曜日の正午、静かで清潔なキッチンに一人で立ち、スパゲッティをつくりはじめる。それは僕が最も愛する時間なのだった。いや、もっとも大切にしたいと考えている時間だった。土曜日の昼食のひとときだけは、誰にも邪魔されずに心穏やかに過ごしたい。僕はそのことだけを願って生きている。にんにくを炒めていたときのことだった。すぐそばで誰かが語り掛ける声が聞こえてきた。僕は思わずキッチンを見回したが、そんなことをするまでもなく誰もいるはずはない。テレビもラジオもついていないし、音楽もかけていないし、スマートフォンやパソコンやスマート・スピーカーは別の部屋にある。だから声を発するものは僕自身のほかには何もないはずなのだが……。パスタキャニスターをパかっと開くと、声は大きくなった。それで声の主はその中にあるらしいということはわかったけれども、中を覗き込んでみたがそこには何もない。厳密に言うとスパゲッティの麺のほかには何もない。しかし麺が声を発するはずはない。
そうとは限らないのよと声が言った。喋るスパゲティもいるのよ。当たり前でしょう。そんなに不思議かしら?
信じがたいことにスパゲティが喋っている。しかも言葉つきから察するに女らしい。もちろん僕が最初にやったのは自らの正気を確かめることだった。僕はとりあえず額に手を当てて熱がないことを確かめた。いや、僕は狂ってなどいないはずだ。これまで狂ったことはないし、その徴候や傾向もない。心療内科に通院した経験もない。多少落ち込みやすいきらいはあるけれども、いちおう精神的には健全であるはずだった。幻聴を聞いたこともない。しかし声は確かに聞こえている。いやというほどくっきり聞こえる。
まさか?いや、そんな……僕はそんな意味のないことを口にしたように思う。
早くつかんで鍋に入れなさいよ。もう沸騰しているわ。塩も忘れないでね。
ふむ、しかし僕は言われなくてもそうするつもりだったのだ。塩など忘れるはずはない。なぜなら僕はパスタを鍋にどさっと入れて、その麺の上に直接塩を振りかけることを、何より好んでいるからだ。これは普段買っている銘柄のパスタだ。近所のディスカウント・ストアで確か先週の日曜日に買ったものだ。イタリア産デュラム・セモリナ100%使用、袋にはそう記載されていたはずだった。その表記のとおりなのだとしたら、このスパゲッティはイタリア語を話して然るべきではないのか。いや、そういうものでもないのだろうか。

しかしそんなどうでもいいことを考えて手を止めるわけにはいかない。スパゲッティづくりというのは一瞬一秒が勝負であるので、ぼやぼやしている暇はないのだ。僕はパスタ食べたい分だけ掴みとり、ぐつぐつとお湯が煮える鍋に放り込んだ。ああ、という心地よさげな声が聞こえた気がしたが、気にせずに僕は茹で上がるのを待った。フライパンにつくっておいたソースと混ぜて無事ペペロンチーノは完成した。塩とニンニクと唐辛子だけという必要最小限の材料によって作るぺペロン。僕はそれをテーブルに置き、お皿と向かい合い、フォークを手に取り、食べはじめる。土曜日の昼食にスパゲッティを食べるときだけは、食べながら何か読んだり観たり聞いたりしない。ただ食事だけに集中する。
あなたは私に対してだけはいつも、そうやってまじめで真摯だったものね。
僕は口に運ぶ。ペペロンチーノは繊細な料理であり、ちょっと塩の分量やニンニクの炒め加減が違うだけで、まるで味が変わってしまう。そして僕はいまだ一度も完璧に調理に満足できたことはなかった。だからこそ毎週のように作り続けているのかもしれない。
あなたは好きなことになるととことん追及するタイプだものね、昔からそうだったわ、と声がまた話しかけてきた。僕は無視して食べ続けた。今日の出来は悪くない。これは上位3位に入る出来と言ってよいだろう。それで僕は何となくおおらかな気分になっていたのかもしれない。次に声が語り掛けてきたとき、もはや僕は自らの正気を疑うこともせず、声に耳を傾けていた。
ねえ、これからは週に一度と言わず、2度でも3度でも食べていいのよ、とスパゲッティは話しかけた。どこから聞こえるのだろう。その大半は、すでに僕の胃に収まっているはずなのに……。でもその提案は悪くはない。悪くない、と僕は返事をしていた。週に一度でなくてはいけないといつしか思い込んでしまっていたが、そのことには別に理由もないのだ。
そうだな、日曜日の昼もスパゲッティを食べたっていいんだものな、何も悪いことはないよなあ、と僕は呟いていた。
するとスパゲッティがまたそれに対して何か言って、そのあと我々の会話は弾んだ。