ゆるふわ忘却

朝目を覚ましたとき、僕はゆるふわにとらえられていた。バニラ色のゆるふわ煙霧が僕を閉じ込めていた。その霧に捕まったら基本的にもう二度と元のところへは戻れない。そのことは覚悟しなくちゃならない。しかし僕は意外なほどあっさりとすべてをあきらめてしまっていた。未練などなかった。心はすっかりゆるふわにとらえられていて、ゆるふわ煙霧を抜けてゆるふわ国へと潜入することだけが、僕のただひとつの望みとなっていた。霧の中にゆるふわの香りが立ち込めている。奥へ進むにつれて香りは濃くなり、霧は分厚い泡みたいに体にまとわりついた。そして忘却が始まった。新しいものから順に僕の記憶は一つずつ消えていった。そうやって僕は胎児にまで遡り、やがて胎児以前の記憶さえ失ってしまった。そのとき僕は霧の向こうから人間の手が飛び出すのを見た。僕は迷わず握り返した。小さくて温かいその手は、ゆるふわ国の王女の手だった。僕はすでにゆるふわ国に入国していたのだった。
ゆるふわ国のゆるふわ王女は薄いピンク色の肌に真っ赤な唇、体はふんわりとして丸く、豪勢な雪だるまみたいに太っている。どこをつついてもシフォンのケーキのような弾力がある。頭にティアラをつけているが、それは明らかにレプリカだった。おもちゃだった。王女は「トイザらス」でそれを買うのだと言っていた。いろんなデザインのティアラをいくつも持っているらしい。王女がまとうドレスも特別なものではない。それはドレス風に見せているだけの普通の服に過ぎない。ところで王女は美しい声を持っていた。ホイップクリームみたいに滑らかで柔らかなその声は、ゆるふわ語に特有のゆるやかでふわふわした音調ととてもよく調和した。ときに意味のわからないことを口走ったり、まるで理屈の通らない理不尽なわがままをわめきたてたりするようなときでも、その声のためにすべては詩のように響くのだった。そんな王女が僕に愛の言葉をささやく。ああ、耳元でその声を聞いたら、僕はもう……。
いつしか僕の肉体は、ゆるふわ煙霧と同じバニラ色のガス体のようなものになり果ててしまっていた。かつて僕を構成していたものの大半はゆるふわの中に溶けてしまった。脳は液状化して流れ去り、記憶は失われたまま、永久に戻ってこないのだった。