祖父を訪ねる

受付で用件を告げる、のだが、どこかくぐもったような妙な声になってしまい、しかも抑揚もおかしかったので、受付の女性は怪訝そうな、不審そうな目つきで僕を見た。こういうことはよくある。ろくに声を出さない生活をしているからこういうことになる。だから久しぶりに他人に向けて声を発するときに声量を適切に調節することができず、声が小さすぎて届かなかったり、あるいは不自然な大声になって相手をたじろがせてしまったりする。ずっと以前のこと、スーパーのレジで若い女性の店員に袋がいるかどうか聞かれて、僕はいらないと答えたのだったが、その声が店員には聞こえなかったらしく、さらに彼女はまだ胸に「研修中」のバッジをつけた新人だったので商品のバーコード入力にまごついており、僕の後ろには多くの列ができていて、そのとき別の年配の女性店員がやってきて新人店員が受け持っていたレジを手伝いはじめた。そのとき中年の店員が新人の店員に「袋は?」と尋ねた。つまりお客(僕のこと)がレジ袋を必要としているかどうかを確認したのだったが、新人店員は前述のとおり僕の返答が聞き取れていなかったために、その問いかけにこたえることができず、それで中年の店員は新人店員がレジ袋について質問しなかったものと思い込んでしまったらしく、そのことで新人店員を厳しい口調で叱責した。改めて中年の店員が僕に袋について尋ね、僕はそれにはちゃんと相手に聞き取れるように返答した。精算が終わって僕がレジから去るとき、新人店員は僕を恨めしそうな視線で一瞬睨んだ。彼女はレジ袋についての問いかけを僕がまるっきり無視したものと思い込んでいたはずだし、僕のせいで彼女は怒られてしまったのだ。

その気の毒な女性店員のことを思い出すとき、僕の心は今も痛むのだが、それから10年以上が経過した今でも、僕は同じような過ちを繰り返しているというわけだった。僕は改めて言いなおし、それは一度めよりはましな発音だったので、受付の女性の表情を和らげることこそできなかったものの少なくとも用件は伝わったらしく、彼女は僕に用紙を差し出して名前を記して待つようにと告げた。数分ほどすると看護師が現れて、僕にあとについてくるようにと言った。それで僕はその看護師について階段を上った。
病院は広くて清潔だった。その清潔さをアピールするかのように内装はどこもかしこも真っ白、あまりに静かなので病院というより美術館にいるみたいだった。途中の廊下で、銀紙をすっかり剥がした裸の板チョコを食べながら母親について歩く少女とすれ違った。僕の前を歩いていた看護師が、少女に何か声をかけて、少女はそれに対してにっかりと大きく笑って何か答えた。少女の歯も口の周りも黒くなっていた。

目的の病室にたどり着くと、看護師は僕にここで少し待つようにと言って、それから白衣のポケットから板チョコを取り出して無言で僕に手渡し、病室に入った。廊下に一人とり残された僕は板チョコを手にしたまましばらく呆然としていた。これはいったい何なのか、これを食べながら待っていろと言う意味なのか、さっき少女が食べていたのもどこかの看護師からもらったものなのだろうか。この病院にはそういうサービスのようなものがあるのだろうか。それにしてもどうして板チョコなのか? この食べ物は何となく、病院という場所のイメージとそぐわない気がする。しばらく考え込んでいたがいつまでもそうしているわけにもいかないのでそばにあったベンチに腰掛け、包装を破ってチョコを一口齧ってみた。砂糖のかたまりみたいなこのお菓子そのものは、僕は決して嫌いではない。食べながら僕は今日の日付について考えたが、どう考えても今日はバレンタインデーではなかった。たとえバレンタインだったとしても、どうして病院で看護師が見舞客にチョコを渡さなくてはならないのだろう。いずれにしてもそのチョコは思いのほかおいしかった。僕は夢中になってすぐに半分ほど食べてしまった。するとそのうちにまた病室のドアが開いて先ほどの看護師が現れ、僕に中に入るよう促した。僕は食べかけのチョコを再び銀紙で包んでポケットにしまってから部屋に入った。

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ベッドの上では祖父がうつぶせの姿勢になって横たわっていた。祖父は首だけを持ち上げて僕を見ていた。彼の黒々とした顔は記憶にあるよりも若々しく思われた。そういえば母もそんなことを言っていた。じいちゃんは入院してからむしろ元気になったみたいなんよ……ぎょろっとした目が僕を見据えている。視線は一度も僕から離れず、ろくに瞬きさえしない。僕はぎこちなく笑顔を作り、やあ、来たよ、とかそういうことを言った。しかしやはり祖父は病気なのだ。元気だったころ、祖父は僕に会うといつも笑顔を見せたものだったが、今では一体この男は誰だろうというような不思議そうな目で僕を見つめている。おじいさまは安静にしていらっしゃいます、普段はほとんど眠っていて、ほんとうに手のかからない患者さんでございます、看護師がそのように言った。僕は看護師に出て行ってもらいたくなかった。祖父と二人きりになりたくなかった。白いパジャマを身に着けた祖父は、両手と両足を大きく広げてうつぶせにベッドにしがみつくような体勢で、首だけを上に向けている。そのポーズはどこかトカゲを思わせて奇怪だった。どうせなら今も眠っていてくれればよかったのにと僕は思った。
看護師がドアに向かう。どうかここにいてください、となどと頼み込むことはできなかった。彼女にも仕事があるのだ。そして無情の看護師はそのまま本当に出て行ってしまい、僕はトカゲのような祖父とともに狭い病室に置き去りにされた。
よう、来たな、と祖父が言った。その口からトカゲめいた細長い舌が飛び出さないことがむしろ意外だった。僕は返事をした。声がちゃんと聞こえたかどうかわからないが、どちらでもよいことだった。そばにあったパイプ椅子に腰かけて僕は祖父を見据えた。祖父が精神を病むとは、家族の誰も予期していなかった。祖父は精神的な不調から家族の中で最も遠いものとみなされていたのだ。彼はまさしく竹を割ったようなさっぱりした性格の持ち主だったし、実際に園芸店で仕事として竹を割っていたことさえあるのだし、定年後は畑の農作業に朝から晩まで精を出していて肉体的にも頑健で、その生活に悩みや迷いなど入り込む余地はないように見えた。しかしそれはあまりに画一的なものの見方である。他人の内面のことは肉親でさえ完全にはわからないのだ。僕は祖父が精神の病とは無縁な人物だと勝手に思い込んだことを祖父が病気になったときに恥じた。僕はずっと祖父を尊敬していたし、その性格的な強さを羨んでもいた。僕のほうは祖父とは似ても似つかず、くよくよと思い悩んでばかりの人間である。
学校はどうかね、と祖父は言った。その口調は元気だった頃とさほど変わりがない。そして祖父はいまだに僕のことを学生だと思っている。
ああ、まあまあだよ。
ちゃんと勉強して、ええ会社に就職するんよ。その台詞にも変わりがない、ほとんど顔を合わせるたびに祖父は同じことを言う。そしてその言葉はそれ以上のことは何も意味していないのだ。皮肉でも仄めかしでもない。祖父は本当に、大学を卒業して良い会社に就職することが誰にとっても幸福なのだと信じていて孫である僕にもそれを望んでいる、というだけのことなのだった。
そして僕は祖父にその言葉をかけられるたび、うんざりするような、やりきれないような、なんとも言えない気分になってしまう。その言葉が純粋な善意から、無邪気といってもよいほどの正直さから発せられていることが伝わるからこそ、ますますやりきれなくなる。祖父の考えを変えることはもう永遠に不可能だろう。あるいは祖父が若かったころには彼が口にしたような考えは、彼が理想として思い描く人生のルートは誰にとっても正しく、誰も疑問をさしはさむ余地のないものだったのかもしれないが、今はもうそういう時代でもない。しかし祖父はいまだそれを信仰のように固く信じている。祖父自身はそういういわゆる正規のルートに乗って生きてきた人物ではなかった。彼はろくに教育も受けず学問もなくたたき上げのような人生を歩んだ。だからこそ孫の僕には自分のような苦労をせずに済むように期待する気持ちが大きいのかもしれない。
大丈夫だよ、と僕は心にもない答えをする。そしてそれは嘘でさえある。というのも僕の生活も将来も全く大丈夫ではないのだから。それは単なるいつもどおりのお決まりの返答にすぎない。いちおう大学には入学したものの、ろくに何も学ばず卒業もせずに逃げ出してしまった。それ以来、どうして野垂れ死なずに済んでいるのか自分でも不思議な生活が続いている。つまり僕は祖父が病気になっても口にするほど固く信じているルートからはまったく転げ落ちてしまった人間なのだ。もはや立て直すことは不可能に近く、僕自身がその可能性をさほど信じていない。いわゆる「ルート」のようなものに僕は本能的な反発を覚えていて、あえて自分の意志でそこから脱落したのだ、と自分では思っていた。でもその理屈は、単に無能さゆえにいろんなことがうまくいかず挫折し続けた事実から目をそらし誤魔化すための言い訳に過ぎない、といわれたら、否定もできない。

僕は窓辺に立って外を眺めた。病院を取り囲む薄暗い雑木林が見える。空はどこもかしこも同じ濃さの白っぽい灰色にのっぺりと塗りつぶされていた。電線に黒い鳥がとまっていたが、僕の視線を感知したかのようにすぐに飛び立ってしまい、そのあとには動くものなど何もなかった。僕はポケットから例の板チョコを取り出して一口齧った。この病院では見舞客にいちいち板チョコを配るのだろうか、そんな変な病院があるだろうか。しかしこの病棟は特別な目的のために建てられた特別な施設だから、僕が想像したこともないようなことが行われている可能性はある。なんにせよ今の僕にとって、板チョコはそれほど役に立たないものでもなかった。というのもそれを齧った途端に、僕はなぜか気が楽になるような、ほっとするような感じを覚えて、それで病人と二人きりでいることの押しつぶされるような憂鬱な気分がいくらかまぎれた。

食べおえると僕は再び祖父と向き合った。僕は祖父に板チョコを食べたことがあるかどうか尋ねてみた。僕が知る限り祖父は決して甘いものを口にしない男だった。祖父は答えず、トカゲめいた四つん這いの姿勢のままベッドを降りて床を這い、上体をエビのように反らせて病室の壁を指で引っ掻くような仕草をはじめた。僕はなすすべもなく黙ってその様子を見ていた。すると先ほどの看護士が部屋に入って来て、祖父に大声で呼びかけた。彼女は僕にも手伝うように命じ、我々は二人がかりで祖父をベッドに連れ戻した。仰向けに横になった祖父は目を閉じてそのまま眠ってしまった。