ドアの外に立っていた男

ある日ドアを開けると男が立っていた。背が低くまるまる肥った、醜悪な風貌の男だった。いつからそこにいたかはわからない。そしてどうしてインターフォンを鳴らさないのか、それとも今ちょうど鳴らすところだったのだろうか?僕はその男に見覚えがあった。素性も名前も何も知らないけれど、とにかく初めて目にする男でないことは確かだった。こんなにインパクトのある見た目をしているのだから、一度見たら忘れようはない。しかし具体的にいつどこで見かけたのかとなると何も思い出せなかった。一度ではなかったかもしれない。考えてみればあちこちで見かけたような気もする。

――……どうです、こんなにうまい話はないではありませんか。あなたは毎月決まった額を支払うだけでよい。たったそれだけであなたは私どもが提供するサービスを全て受けることができるのです。すべてです。話がうますぎて怪しんでいるのでございましょうか?いえいえ、そんな必要はございません。多くのお客様がすでに加入されており、大いにご好評をいただいております。あとから何かしら追加の請求が来るといったこともございません。そのことは私がお約束します。あなたの負担は月々の料金だけ。私どもはただお客様に便利さ、快適さを享受していただくことを願っているだけなのです。

奇怪な男はそんなことを話した。その話しぶりは早口で聞き取りにくかったが、僕は彼の言葉を正確に理解した。男が語ったことははじめて耳にする話ではなかった。彼は別に僕を騙して陥れようとしているわけではない。契約を交わせば月々のほんのわずかな負担だけで十分なサービスが受けられること、多くの人々がそのサービスの恩恵にあずかっていること、それらのことは紛れもない事実だった。僕はそのことはちゃんと知っている。知り合いや友人など周囲の人間はみんなそのサービスを利用していて、その便利さ、快適さをことあるごとに称賛しているのだ。いまだに拒絶し続けているのはこのあたりでは僕ひとりだけだった。しかし僕は何も最後の一人になっても抵抗を続けてやろうという気概を持っていたわけではない。新しいものや便利すぎるものに対して嫌悪感や危機感を抱いているというわけでもなかった。僕がそれを拒んでいたのは、ただ「面倒だったから」というごく単純な理由に集約される。

男の話を聞くうちに僕の気持ちはだんだん揺らぎだしていた。そうだ、いずれあきらめなくてはならない時が来ることはわかっていたのだ。せっかくこうして向こうからやって来てくれたのなら、これはいい機会かもしれない。それはおそらく、僕が想像していたほど重大なことでもないのだろう。その契約によって、もし何らかの不都合が生じたとして、それはこれまでと同じようにそれを拒絶し続けることによって生じる様々な弊害と比べれば、あるいはまだましかもしれない。僕はだんだん自分が時代にそぐわなくなっていくことの孤独を、そして周囲と自分を隔てる冷ややかな壁の存在を、日々感じ続けていたし、それはだんだん耐えがたいものになりつつあったのだ。こんなことをいつまで続けるのだろう、と思うようになっていた。そんなことを考えるうちに、拒絶の意思はどんどん薄れていった。

男が僕に1枚の紙を差し出す。その紙に署名するだけで契約はすべて完了するということだった。とてもシンプルである。僕はそのペラペラのA4用紙を受け取って目を通した。しかし記された文言はろくに頭に入ってこない。僕は考えていた。いずれ僕のようなマイノリティまでもがすっかり取り込まれてしまって、世界中の人々が同じ契約のもとに縛られることになるだろう。そしてこの奇怪な男が所属する団体はますます各地にその支配を拡大する。まったく感心するばかりだ。とても洗練されたやり方だ。誰も傷つかないし損もしない。少なくともそうしたデメリットに容易には気づけない。彼らは人々に何も見せず何も感じさせないままいつのまにか支配する。男の内なる声が聞こえてくる気がした。

――そう、私どもは支配したい。暴力や恐怖によってではなく、穏便な手段で穏当に世界を征服したいのです。誰とも敵対することなく、効率的かつ合理的に、すべての人間を支配下に収めたいのです。……

僕は署名した。それは実質的に、世界から取り残されることから逃れるための契約だった。そのようにして僕は大多数の人々が属するのと同じところに閉じ込められてしまった。しかし今では僕はそのことにさほどの不満を覚えてはいない。閉じ込められた状態にもある種の快さはある。それはまるで生温かい液体に全身浸かっているような感じだった。その快さとともに、僕はこれからも生きていくことになるのだろう。