ヴェーベルンのコンサート

ある日新聞紙の片隅に掲載されたコンサート情報が僕の目を引いた。そのコンサートで演奏される予定の曲目は、すべてアントン・ヴェーベルンの作品だった。そして僕は長らくアントン・ヴェーベルンの音楽を愛好していたのである。ピアノ曲や歌曲、そしてあの冗談みたいに短い、2楽章で10分ちょっとしかない『交響曲』。僕はその音楽の中にユーモアと、ひそかに透徹した絶望の気配を見出す。
愛好していたにもかかわらず生演奏を聴く機会がなかったのは、僕が住む下関市やその近郊でヴェーベルンが演奏されることがなかったためだ。コンサート芸術においては近・現代の音楽は、ごく一部のものを除いて無視されがちである。地方都市ではなおさらのことである。だから僕はその日、新聞紙上でヴェーベルンの文字を見つけたとき、文字通りしばらく固まってしまった。「行くしかない、これは行かないと」などと一人でつぶやいていると、近くにいた妻が、「なに一人でしゃべってんの気持ち悪い」と言った。
僕はそのコンサートに妻を誘ってみたのだが、彼女は例によって拒絶した。コンサートが嫌いなの、見知らぬ人々が大勢一堂に会している状況ってのが嫌なの、などと、彼女はこれまで僕が一度も聞いたことのなかった理由まで持ち出して拒絶した。妻について知らないことはまだたくさんあるらしい。僕はただ、彼女はクラシック音楽を嫌っているだけだと思っていた。
それで僕はまたしてもナナタンを誘うことになった。彼女はいつものように二つ返事で誘いを受ける。

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そのコンサートは、僕がこれまで体験した中で最も音の数が少ないコンサートだった。ほとんどの時間を空白と沈黙が支配する、静謐で点的な音楽。
終演後、コンサートホールを出て夜の街を歩いていたとき、ナナタンが言った。
「最近さ、楽章間で、お客さんは咳しなくなったね」
そういえばそうだな、と僕は答えた。
「例のウイルス騒ぎがもたらした、数少ない良い影響だと思うわ。おかげでヴェーベルンが台無しにされなくてよかった。ちょっと前までは楽章間とかでみんな示し合わせたみたいに咳してたものね。私あの咳が嫌で嫌で仕方なかったから。どうしてわざわざコンサートまで来て咳しなくちゃならないのかしらね。そんなに咳って頻繁に出るもの?ただ座って音楽を聴くだけで、そんなにノドがおかしくなるの?ひどい場合だと曲の最中、しかもよりによって静かなパートで、まるで狙いすましたみたいに咳する人もいるわ。もしかしたら咳をすることが何かの意思表示なんじゃないかって考えたこともあったわ。ブーイングとか、指笛とか、足で床を踏み鳴らしたりとかと同じような。でも違うんだね。ただ咳が我慢できないだけなんだね。思うんだけど、我慢できないほど咳が出るんだったら、コンサートになんて来るべきじゃないわ。家で寝てりゃいいのよ。そうじゃない?ああ‼思い出したらまた腹が立ってきたわ。せめてやかましいパートで咳するべきだわ、そんなに咳がしたいんだったらね。どうして我慢できないのかしら。私、ライヴ録音とかでも、咳が入っていたら、演奏がどんなに優れていても、もうそのCDは聴けない。CD代返してほしいって思うわ。だからコンサート中に咳をする人が許せない。そういう人たちを全員、処刑台に並べたい」
僕たちは夜道を歩きながら、駅へ向かっていた。その途中の地下道で、あのネズミに似た顔の女を見かけた。彼女は今日も大声で歌っていて、僕とナナタンは無言でその前を通り過ぎる。
ナナタンが家に来ないかと誘ったので、僕は行くことにした。