福岡へ

僕は仕事の打ち合わせのために福岡市を訪れていた。夜中、ホテルの部屋で眠っていたとき、物音で目が覚めた。太鼓を叩くような音を、聞いた気がしていた。しかし耳を澄ませても、そんな音は聞こえてこない。ときどき窓の下の道路を走り去る自動車の音と、そして室内に響く低い唸りのような空調の音、部屋にあるのはそんな音ばかりだった。
だいたい誰が夜中のホテルで太鼓など叩くというのか。
僕はベッドから出て窓辺に立ち、外を眺めた。眼下に街の明かりが点々と散らばっている。黒い鏡のようになったガラス窓に、自分の顔が映っていて、その上に明かりは斑点のようだった。
眠くなかったし、再び眠ろうという気分にもなれなかったので、着替えて部屋を出て、廊下をあてもなく歩きまわった。廊下はもちろん無人だった。宿泊客はみな部屋に閉じこもって眠っているのだ。僕は家にいる妻と子供たちのことを思った。彼らもきっと満ち足りた眠りをむさぼっていることだろう。
廊下の端にベンチがあったので、僕はそこに腰かけ、しばらくぼんやりと物思いにふけった。それから、いつもポケットに入れているA6サイズのノートパッドと鉛筆を取り出して、絵を描きはじめた。夜中のホテルの廊下には、特に描きたいと思えるものはなかったので、何も見ず何も考えずに、ただ右手が導くところに任せた。線がさらなる線を呼び、それらが重なり合い交差して、物体を形作っていった。紙の上に何が現れるか、僕自身にさえ予測がつかない。即興的なそういう描き方は僕の主たる暇つぶしである。紙の上にいくつもの線を走らせていると、僕は時間を忘れた。

ふと顔をあげたとき、すぐそばに人が立っていた。それは女だった。僕は絵に没頭していたので、いつからその女性が、そこにいたのかわからなかった。女は無言で僕を見下ろしている。ひどく色白で痩せていたので、最初は幽霊かと思ったが、顔がふっくらしていて、ほっぺたが膨らんでいて、その顔立ちはどことなく漫画的で滑稽だったので、別に怖くはなかった。
よく見るとその女の顔に見覚えがあった。数時間前に僕はその女とホテルの階段ですれ違っていた。チェックインを済ませて部屋に向かう途中のことだ。ホテルの階段で人とすれ違うことは滅多にない。たいていの人々は階段など使わずにエレベータを利用する。だから彼女のことは覚えていた。その女と深夜の廊下で再会したのだった。僕は女が口を開くのを待ったが何も言わないので、また絵を描く作業に戻った。もう一度顔をあげたとき、もうそこには誰もいなかった。