ネズミ女を尾行する

ネズミに似た顔つきの女が、地下道でいつものように弾き語りをしていた。そのときオーディエンスは僕一人だけだった。すぐそばで見ると、女は思っていたより小柄だった。目の前に立っているのに女は僕にまったく視線を向けない。歌が終わって、僕は拍手をした。
「なんていう曲なのですか」と僕は尋ねる。
ネズミ女は僕の顔をちらと見て、すぐに視線を反らした。
「今歌っていた曲のタイトル」
「『遥かなる冒険』」
女の声は歌声に比べてずいぶん低かった。ちょっと驚いてしまうほど声が違っていた。
「良いタイトルですね。あなたが作った歌?」
女はほんのわずかに頷いた。
「いつもここで歌っていますね」
女は無言だった。いかにも不審そうな表情を浮かべていた。
「気になってたんです。素敵な歌声だなあと思って、いつも時間がなくてすぐ通り過ぎてしまうんだけど、いつかちゃんと聞いてみたいなあって思っていたんですよ」
女は何も言わない。
「他の曲もちゃんと聴いてみたいですね。あなたには、メロディーのセンスがある気がしますよ!」
「何か、ご用なんですか」と女が言った。
「あなたの歌に何かを感じたのです。だから思わず足を止めてしまったのです。僕はすでにあなたのファンなんだと思います。あなたの歌は僕を魅了しました」
ああ、そう、と女は言ったように思う。よく聞き取れなかったが。でも何となくその態度は先ほどよりよそよそしくはない。彼女にはおだてがきくらしい。自意識をくすぐられて警戒心をゆるめている。誰だって自分のことを天才だと信じて歌を作って歌うのだ。この女も例外ではない。
「どうかもう一曲歌ってくれませんか?今日は時間があるから、ゆっくり聞きたいのです」
もう終わりなの、とネズミ女は言った。そしてギターを肩から降ろした。
僕は千円札を彼女に差し出した。彼女は無視してギターをケースにしまおうとしている。
「受け取ってください。ほんの気持ちですよ。本当に、僕は感銘を受けたんです、あなたの音楽に。聞いていてなんだか懐かしい気分になったから」
女はお金を見ないふりをしていた。それで僕はギターケースにお金を投げ入れた。女は溜息をついたが、お金を取り出すこともなく、そのままケースを閉めた。

女が去ってから数秒後に、僕は歩き出した。地下道から地上に上がり、歩道を見渡すと、人混みの中にギターケースが見えた。小柄な女は群衆に埋もれてしまっていたが、ギターケースがちょうどよい目印になっていた。僕は少し距離を取りながら、ギターケースが視界から消えない距離を保ってあとをついて歩く。女は妙に足早にずんずん歩いていた。バスにもタクシーにも乗ろうとしなかった。女は見るからに前方にしか興味がないようで、僕は見つからないように注意する必要がほとんどなかった。
そのままアーケード街を通り過ぎた。彼女は細い路地に入り、そこには人けはほとんどない。小柄な彼女の後ろ姿がひどく頼りなく、無防備に見える。こんな人けのない道を、彼女のような若い女性が夜間に一人で歩くのは、危険なことだ、などと考えながら、僕は一人で笑みを浮かべていた。
突然女の姿が消えた。僕は一瞬戸惑ったがすぐに理解した。女は消えたのではなく、通り沿いに建つアパートに入って行ったのだった。女はアパートの階段を上りはじめていた。そのアパートは階段にも廊下には壁がなく、すべての階の部屋のドアは外から見えるようになっていた。僕は街路樹の陰に隠れて様子をうかがった。やがてギターを持った女は2階の廊下に現れ、いちばん奥の部屋の前まで歩き、そのドアの鍵を開けて中に入っていった。
僕は腕時計に目をやる。午後8時7分。そのあともしばらく、僕はその場に立っていた。しかしやがて通りの向こうから車がやってきたので何事もなかったようにまた歩き出した。