彼女の瞳には三日月が映っていた

上手ね。あなた画家なの。と女が言った。
仕事で絵を描くことは多いが画家ではない、と男は答えた。

それは何の絵?何かの道具?
架空の機械ですよ。僕が想像した機械。
目的もなくただ作動するだけの機械なんです。すごく複雑な仕組みで、でも何の役にも立たない。

二人は深夜のホテルの廊下にいた。男が廊下の端のベンチに座って絵を描いていたところに、女がどこからともなく現われて、彼に声をかけたのだった。彼らはお互いのことなど何も知らない。
あなたは何をしてたのですか、と男が尋ねた。
散歩してたの。
ホテルの中で?
そう。いつも知らないホテルに来るとその中を隅々まで歩き回るの。子供のころから、いつもそうやって遊んでいたわ。姉と一緒に
男は頷いた。
私はその冒険が――私と姉は、ホテルを探索することを「冒険」って呼んでいたの――大好きだったから、大人になっても同じことをやるのよ。
じゃあ今日も、お姉さんとご一緒なんですか
え?まさか。姉はいないわ。
そう。
姉は死んじゃったから。自殺したの。ずっと昔に。
女がなんでもないことのように言うので、男は女の顔を見た。その顔に表情らしい表情はない。
公園の桜の木の枝で首を吊ったの。
何と言ったらよいかわからず、男は黙っていた。
私が死体を見つけたの。その公園は、家からけっこう離れていたんだけど、どうしてそのとき私がその公園を捜してみようと思ったのか、後で考えると不思議だった。ほとんど行ったこともなかったのにね。明け方に姉の姿が見えないことがわかって、そのあと何かに導かれるみたいに私はその公園に行ったの。そして桜の木の枝にぶら下がっている死体を見つけた。そのとき姉はたったの15歳だった。
女はかすかなため息をついた。男は黙っていた。
ねえ、ホテルって、いろんな不思議なものがあるのよ。知ってる?
たとえばどんな?
幽霊みたいな人影とか、人魂みたいな光を追いかけたり、暗くて不自然なほど長い、トンネルみたいな通路を歩いたりとかね。そんなのを何度も見かけたことがあるわ。
素敵なお話ですね。
信じてないでしょう。嘘だと思ってるでしょう。馬鹿にしているんでしょう。
そんなことないですよ。
「どんなホテルにも、そこにしかない空気というか雰囲気っていうかそういのがあるの。ホテルというのはいろんなところから集まってきたいろんな人たちが、それぞれが抱えたものを、そこに残していく場所だから。いろんな感情や思いが、部屋の中や、ロビーやレストランや、廊下に、階段やエレベータの中に、たまっているのよ。沈殿しているのよ。それがある特殊な空気が生むんだわ。私はそう思ってる。私はその空気が好きなの。その空気はいつも懐かしい。」

そのあと二人は屋上のバーに場所を移した。いくつかの言葉を交わしたあと、男が女に、部屋に行ってもいいかと尋ねると、女はとくには拒まなかった。

🏨

部屋で二人きりになったとき、あなたって結婚しているんでしょ、と女が言った。
そうかもね、と彼は答えたが、薬指に指輪をしているのでそのことは一目瞭然なのだった。
いつもこんなことしてるの?
こんなことって。
旅先で女を引っかけるようなこと。
成り行き次第だよ。誰かと出会う機会があって、より親しくなれる可能性があるとき、あえてそれを拒むようなことはしないんだ。僕はそういうスタンスで生きているんだ。その場合、結婚してるとかしてないとか、そんなのはどうでもいいことなんだよ。
そんな意見、奥さんが賛同してくれるかしらね。
男は肩をすくめた。女は呆れたようにため息をついた。そのとき彼女の瞳には三日月が映っていた。

女が眠ってしまったあと、男はその顔を眺めながら、息子が以前に作った粘土細工の人形を思い出していた。その人形の顔は、あらゆる凹凸が極端なほど隆起していて、そのために滑稽だった。窓の外の三日月はいつしか見えなくなっていた。女は何も知らずに、粘度人形と同じ顔で眠っている。
彼はノートパッドを取り出し、その顔をスケッチしはじめたが、途中で眠くなったので止めて、そのまま眠った。

朝になって女と別れた。お互いに名前も知らないままだった。書きかけの女の顔のスケッチだけが、彼の手ものとに残った。暗い部屋で眠気をこらえながら描いたその絵は、まるで人の顔に見えない。ただでたらめな線が飛び交っているだけで、彼自身でさえ、何をどんなふうに描こうとしたか、思い出せないのだった。