憐みの天使

1. 銀色のポルシェ

ある日僕はマンションの駐車場に銀色のポルシェが入ってくるのを目にした。ベランダでぼんやりしていたときのことだった。部屋の真下がちょうど駐車場なのだ。僕は柵から身を乗り出してポルシェが駐車する様子を眺めた。見慣れない車だった。車はとどこおりなく駐車を終え、運転席のドアが開き、一人の男がそこから降りてきた。それは異様な人物だった。影のように全身が真っ黒で、僕は8階の高さから見下ろしていたのではっきり見えていたわけでもないが、顔や手といった露出した部分さえ、灰か何かで汚れているみたいに黒ずんでいた。見るからに不衛生そうな男だった。ピカピカした銀色のポルシェとは全くつりあわない。男は駐車場を横切り、エントランスのほうへ消えて行った。
僕は部屋を出てエレベータ乗り場へと向かった。そして扉の前に立ち、階数表示を見つめる。あの黒い男が乗っているはずのエレベータが、一階ずつ上昇している。8階のランプが点灯する直前、僕はある予感を覚えて、すぐそばの非常階段に身を隠した。僕がいる階であのエレベータが止まるような気がしたのだった。そして実際に数秒後、扉が開く音が聞こえた。それから引きずるような足音。僕はその足音が通り過ぎるのを待ってから、階段のところからそっと顔を出して覗いてみたところ、その後ろ姿は紛れもなく、さっきあの銀のポルシェから降りてきた黒い男だった。後ろから見ても、彼の首筋のあたりはやはり黒く汚れているように見えた。見間違いようはなかった。男は廊下の一番奥にあるドアの前に立ち、鍵を空けてその部屋に入った。僕の部屋は今男が入っていった部屋の一つ手前である。つまりその男は僕の隣人だった。

2. 僕の不調

その日以来、僕は部屋で落ち着いて過ごすことができなくなった。部屋にいるとき、何をしていても漠然とした不安が付きまとった。それで会社が終わってもすぐには帰宅せず、どこかで時間をつぶすことが増えた。部屋では安らぎを見出せない。ベッドに横になっても朝まで一睡もできない日が増えた。
僕自身にもその不調の原因がわからずにいた。唯一思い当たるのはあの隣人のことだった。あの男が隣に住んでいることを知ったその日から、僕の不調はもたらされた。しかし隣人は見た目こそ異様だけれども、僕は彼から何か迷惑をこうむったわけではなかった。隣人としては何も問題のない人物だった。騒音を発することも共有スペースを汚すこともない。住んでいるのかわからないほど物静かだった。気持ちを乱される理由など何もないはずなのだ。しかしそれ以外に心当たりはない。

眠れない夜、僕はよく外を散歩をした。マンションの正面にはまっすぐな坂道があり、僕は夜中にその坂道に登って、その頂上から自分が暮らす建物を眺めた。例の男が暮らす8階の角部屋はいつも明かりがともっていた。それを目にするたび、僕はなぜか苛立ってしまう。どうしてこんな時刻に明かりがついているのか、なぜまだ起きているのか、それとも明かりをつけたまま眠るタイプなのだろうか。いずれにしてもその小さな光はひどく不愉快だった。
ある夜、散歩を終えてマンションに戻ってきたとき、僕はロビーであの隣人の男とすれ違った。そのときはじめて僕は間近でその男を見たのだ。男の外貌の異様さは僕をたじろがせた。皮膚はまるで濡れた木肌のようで、質感はぬるっとしている。それでいながら丸めてひろげた紙みたいに全体を細かな皺が覆っていて、その顔には妙に大きな丸い目が二つ、暗い穴のようにそこにあった。白目の部分がほとんどない、木のうろのように黒い光のない目。男は僕に全く関心を払うことなく、引きずる足取りでマンションの外へと出ていった。
僕は自分の内部にわだかまっていたある感情をはじめて意識した。僕から気力を奪い、眠りを奪い、心の平穏を乱した最大の要因であるところの、その感情とは憎しみだった。僕はあの男を憎んでいる。特に何をされたわけでもない、ただ何度か見かけたことがあるだけの男を、深く憎んでいる。そのとき僕は今すぐ追いかけてあの男を背後から殴りつけてやりたいという衝動と戦っていた。握りしめた両手が、火のそばにあるみたいに熱くなり、頭がもうろうとした。しばらくその場に立ち尽くしていると、銀色のポルシェが駐車場から出て行くのが見えた。

寝不足のためにいつも体調がすぐれず、頻繁に会社を休んだ。そしてある日、度重なる居眠りと遅刻が原因で僕は上司から退職を言い渡された。僕は甘んじて受け入れた。こんな状態で働くことなどできそうもなかった。
会社を辞めたあと、これで一日中自由に好きな時間に眠れる、と思ったのだが、ことはそう単純ではなかった。僕は眠ることそのものに困難を覚えるようになっていた。目を閉じると瞼の裏側にちかちか光る白いウニみたいな物体が飛び交って、それが眠りを阻むのだった。マンションの自室ではなく、たとえば近所のホテルに宿泊して眠ろうとするときでもそれは同じだった。どこであろうと、どんな時間であろうと、まずまともに眠れることはなかった。

数週間が経過した。基本的に一日中覚醒しているために僕には時間が有り余っていた。その時間の多くを僕は頻繁にあの忌々しい隣人について考えることに費やしていた。ああ、あのときあの銀色のポルシェに目を留めなければ!(心の中で数えきれないほど何度もそう叫んだものだった)そうすれば、僕は今もあの男の存在など知らずにすんでいたはずだった。ということは不眠にもならず、仕事も辞めずに済んだ。どうしてあのときベランダになどいたのだろう。どうしてあの男の部屋を確かめてしまったのだろう。そんなことを考えるたび、憎しみが胸の底でざわざわと騒ぎ立てる。どうにかしてあの男をマンションから追い出せないかと考え、しかし有効な方法は何もないと悟ると、想像は徐々に危険な方向へと傾いていく。

3. 憐れみの天使

ある夜、やはり眠れないまま夜更け過ぎまで過ごした僕は、気がつくと隣室のドアの前に立っていた。僕の右腕はなかばひとりでに伸びてインターフォンを押していた。
ドアが開き、隣人が顔を覗かせた。男は何も言わず無表情に僕を見据えた。僕もまた、口にするべきことなど何もなかった。僕はただ見つめ返した。長い時間、と言ってもおそらく数十秒ほどだが、我々は向かい合っていた。男の顔は墨を塗ったみたいに黒ずんでいる。いったいどんな生活を続けたらこれほどまで肌が汚くなるのだろう。僕はそこにある種の意志の発露を見る気がした。つまりこの男は自ら望んで故意に自分の顔をここまで汚くしたのではないか。長い間の努力と研鑽の果てにこの汚らしさを身に着けたのではないか。どこかで食い止めようと思えばできたはずだ。ここまで汚らしくならずにすんだはずだ。彼は意志のもとに自らを汚していったのだ。その意志は悪意と言い換えることも可能かもしれない。なぜなら彼は確かに僕を不愉快にさせている。
男が目の前でいきなり十字を切る仕草をした。その動作は驚くほど自然で、たとえば映画で見たのを真似しただけ、といった感じではなかった。この男は日常的に十字を切っているのだと僕は思った。何のつもりでそんなことをしたのか?わかるわけもない。しかし男が十字を切るのを目にしたとき、僕の中にある感情が生じた。その感情は、理解しがたいことだが、憐みと呼びうるものだった。なぜだろう?彼が十字を切ったこと、それが僕にとってどうだというのか。どうしてその仕草を目にして憐みなど覚えなくてはならないのか。でもそのとき確かに僕は、このみすぼらしい気味の悪い風貌の小男を憐れんでいた。たとえば気色の悪い造形の虫を観察しながら、こんなにグロテスクな姿に生まれついた生物でも、呼吸し、交尾し、食事をし、排泄して生きているのだと思うとどこか勇気づけられることがあるのと同じように、憐んでいた。
その感情の動きについては、いまだに自分でも理解できずにいる。とにかく確かなのは、そのときすでに僕は彼を赦していた。憎しみはどこかへ流れ去っていた。その瞬間だけ、僕は無垢な天使のように清らかな気持ちだった。

気がつくと男はすでに目の前から消えていた。ドアも閉じている。男は部屋に戻っていた。
一人廊下に残った僕は、右手をポケットに入れる。小さな硬い物体が指に触れる。それは部屋を出る前に戸棚から持ち出してきたナイフだった。そうだ、僕はそのナイフを「使用」するつもりでやって来たのだった。少なくともインターフォンを鳴らして、男がドアから顔を出す直前までは、そのつもりでいたはずだ。眠れない夜に何度も思い描いた想像を実現させるつもりで僕はその道具を携行した。しかし結局使わなかった。使わずに済んだ、というべきだろうか?ナイフをポケットに収めたときに抱いていたはずの覚悟も、憎しみと一緒にどこかへ流れてしまっていた。


僕は部屋に戻る。ナイフを元の場所にしまい、それから熱いシャワーを長い時間浴びた。その夜、僕はとても久しぶりに長く、深く眠った。朝まで眠りは一度も妨げられなかった。