花火大会の会場にて

花火会場は蒸し暑く、人でごった返していた。人々はすでに慣れてしまっていて、こういう人が密集した状況に何とも思わなくなってしまっている感じがある。マスクをしていればそれでいいだろう、という感覚でいる。ハルも例外ではなかった。すぐ近くに、大きな黒いエルグランドが停まっていて、車内では男女が座席に座ってフロントガラス越しに花火を見ていた。男のほうは大柄な、屈強そうな体形をしていて、女のほうは髪の毛を金色に染めている。二人とも30代ぐらいだった。妻と子供たちは花火に目を奪われているので、そんな車には見向きもしない。ハルは花火などそっちのけでその金髪の女の横顔を見ていた。その女に目を引く要素など何もなかった。美人ではもちろんなかったし、肥っていたし、どことなく下品な印象さえあった。でも花火を見るのだって、ハルにとってさほど面白いわけでもなかった。花火にはとっくに飽きている。物心ついて以来、30回以上の夏を経験していて、何度となく花火を見た。花火大会なんて結局のところ毎年同じことを繰り返しているだけなのだ。こんな蒸し暑さの中、見飽きたものをただ見上げるというのはひどく馬鹿げた愚かしいことではないか。もっともハルはそんな花火に対する思いを誰にも口にしたことはない。彼も子供たちと一緒になって、ああ、すごいねえ、綺麗だねえ、などと口にしてさえいた。屋台で買った氷入りのコカ・コーラを飲み干し、氷を噛み砕くと、ひどく大きな音が立して、すると息子が、お父さん、僕も、と言ったので、ハルは残りの氷を全部彼に与えた。小さな息子はまだ未成熟な歯で氷をかみ砕いていた。そのときハルはさっきの黒のエルグランドの助手席から金髪の女が降りてくるのを見た。

ドウンドウンと花火の音が鳴り響く中、女はどこかへ向けて歩いていった。ハルはその後ろ姿を目で追う。女の身体つきは土偶のようだった。隣では息子が氷をカリカリと砕いている。息子は飽きっぽいのか、さっきまでは花火に夢中だったのに、今では花火より氷のほうが大事そうに見える。トイレに行ってくるよ、とハルは行って、妻がうん、と返事をした。ハルはその場を離れ、金髪の女の後を追いかけた。トイレでは人が列を作っていた。金髪女は列の最後尾に立っている。ハルはさらにその後に立ち、すみません、と声をかけた。金髪女が振り返る。近くで見ると彼女の肌は想像以上に荒れていた。こめかみの上あたりの肌がボコボコしている。すみません、トイレはどこですか?とハルが話しかけると、女は疑わしそうな顔で彼を見た。街灯の明かりを受けて瞳が白く光っていた。すぐそこですよ、と女は言った。見ればわかるだろう、という口調だった。その声は低く、ざらざらしていた。
ハルは無言で二、三度頷いた。それでも女の背後に立ったまま離れようとしないハルを、金髪女は不審そうな目で見た。当然ながらそこは女子トイレの列だったので、ハルが彼女の後ろに並ぶのはおかしい。女がそのことについて何か言う前に、ハルは片手で女の首を掴み、もう片方の手で、ポケットから出したナイフの刃先を彼女の首筋に軽くあてがった。
声を出さないで、声を出したら刺します、刺すことになると思います、とハルは言った。女の表情はさほど変わらなかったが、驚きと混乱のために、どうしたらいいかわからないようだった。あるいは何が起こったのか理解できていないのかもしれない。離れたところから眺めると、ハルと金髪女の姿はじゃれあう恋人同士のように見えなくもなかった。
少し後で女は叫ぼうとした。そしてその声は、確かに外に出たのだったが、咽喉を絞められていたために弱弱しく、さらには同時に響いた花火の音のために、ほとんど誰にも聞こえなかった。ハルは首を絞める右手の力をより強め、そして言った。声を出すなと言いましたよね、どうして言いつけを守らないのですか、僕だって本当は刺したくはないんだ。
女はその言葉に対して、特に反応しなかったが、彼女の身体から力が抜けるのが感じられた。
「次に同じことをしたら刺します。僕は本気なんだよ」ハルは、自分の声にはどうも凄みが足りない、と思っていた。良い具合に怖い感じの声が出てくれないのだ。そういう発声方法を知らない。でもこの場合、そんな声は必要なかった。女はちゃんと怯えていた。ハルの言葉は、そのどこか軽い声の調子にもかかわらず、ちゃんと彼女に恐怖を与えていた。ハルはそんな女の様子を眺めつつ、もしかしたらこの女は、もともとはそんなに醜くはなかったのかもしれない、と思った。マスクで顔が半分隠れていても肌が荒れているのはわかったし、そのうえ喫煙者だし(近づいただけでもハルにはそのことがわかった)肥満気味だが、たぶんもとはそんなにひどくはなかったはずだ。長年にわたる生活が、習慣が、彼女を醜くしたのだろう、と思った。
殺せ、そのまま殺してしまおうよ!! そんな声がどこからか聞こえてきて、ハルは首を締めた手の力をさらに強めた。そして頭の中で数を数えた。10秒数えてから手を離すと、女はぐったりして目を見開き、マスクの下で唸るような声を出した。ハルはナイフの刃先を女の首筋から、顎の下に移動させ、顎と咽喉の間の柔らかい肉を、1㎜ほど刺したが、それ以上のことはしなかった。今のところまだ、あの声に従うことはできそうにない。
手を離すと女はよろめいて地面に膝をついた。ハルは背を向けてその場を去った。そのとき花火は大詰めのクライマックスを迎えていた。いくつも立て続けに花火が打ち上げられて夜空をほとんど覆った。ハルは妻と息子の元に戻ったが、彼らはそのことにも気づかないほど花火に夢中だった。
黒いエルグランドの男もいひとりでぼんやりと空を見上げていた。その顔が花火の閃光に照らされている。