結婚記念日

レストランは混んでいた。素敵なお店ね、と妻が言って、それで僕はその店について説明した。シェフが大学時代の知り合いで、彼は東京の調理師専門学校に通ったあと、レストランでの修業を経て、下関に店を開き、僕は以前から彼に、店に行くことを約束していたのだった。
そのあと僕も妻もしばらく黙った。我々夫婦の間には、思いのほか沈黙が多い。しかし平均的な夫婦の間にはどの程度沈黙があるのが普通なのだろう。僕は特に沈黙を気詰まりに感じたことはないが、妻がどうなのかは知らない。
妻が口を開いた。最近また絵を描いているの。そういえば彼女の部屋に描きかけのキャンバスがあったことを僕は思い出した。もともと妻は絵を描く人間ではなかったのだが、僕と交際をはじめた頃から描くようになった。彼女の絵は僕の絵とはまるで違う。彼女は色彩豊かな具象的な油絵を描く。絵の中に直線はほとんどない。

突然ガラスが割れるような音がしてそちらを見ると、床にブドウ色の液体とワイン・グラスの破片とが散らばっていて、そのそばのテーブルで、男が顔を押さえていた。身に着けた上等そうなスーツが、ワインに濡れていた。背の高い女が立ち上がり、バッグを抱えて足早に店を出ていった。何だかドラマのシーンみたいだったが、もちろん撮影ではない。ウェイター駆けつけて床を片づけていた。また別のウェイターは、男に顔を寄せて何か尋ねている。男は手渡されたタオルで濡れた顔を拭いていた。店内にいた人々はみな、気取られないようにそのほうを盗み見ていた。しかしどよめきは少しずつ静まり、ウェイターが片づけを終えると、店内は何事もなかったようにもとに戻った。ワイングラスを投げつけられた男は精算を終えて一人で店を出て行き、それから数分後には、喧嘩したカップルのことなどみんな忘れていた。
乾杯をしよう、と僕は妻に言った。
乾杯ならさっきしたやん、と妻は言ったが、何度したっていいのだと僕は言ってグラスを掲げた。それで彼女も同じようにした。
お互いの謎と秘密に。グラスをあわせるとき、僕はそう口走った。
何それ
結婚して10年近く経つのに、お互いにまだ知らないところがたくさんある、そのことを言っているのだ、と僕は説明した。
もう酔っぱらってるの?
いや。……

確かに僕は妻についてすべてを知っているわけではない。つまり100パーセント知っているとはいいがたい。彼女は謎を抱えていて、彼女から見れば僕もまた謎を抱えていて、それぞれの謎が磁石みたいに引き寄せあっている。我々はそういう夫婦だった。
地中海風味のリゾットとエビのソテー、を食べながら、僕は僕自身が抱えるそんな謎の存在を、感じ取ろうとしてみた。するとなぜか、いつかどこかの道端で見かけた井戸の、その中にあった暗闇を思い出すのだった。