ネズミ女の名前

ある休日の午後、デパートの前の広場で小規模なコンサートが催されていた。僕らは買い物帰りに広場の前を通りかかり、息子と娘が興味を示したので、足を止めて観客の中に加わった。そのときステージ上では4人組のバンドが演奏していた。それはディープ・パープルの楽曲だった。4人とも見るからに若く、高校生か大学生のようで、どうしてそんな若者がそんな古いハード・ロックを演奏しているのかはわからなかったが、でもディープ・パープルの音楽は悪くない。それにバンドの演奏は意外なほど原曲に忠実だった。息子のケイが音楽に合わせて踊りみたいな動きをしていた。
『スペース・トラッキン』が終わるとバンドは引き上げた。司会者の男性がステージに出てきて、その男はなぜか法被のような服を身に着けていたのだが、次に登場するミュージシャンの名前を大語で呼びあげた。『ヒサコ』と呼ばれたその女性が、ステージ上に現れた。アコースティック・ギターを抱えたその小柄な女性は、僕もよく知っている人物だった。駅の地下道で何度も見かけた、あのネズミに似た顔の女だった。

彼女は歌いはじめた。その歌もまた僕が聞いたことのあるものだった。いつだったか、僕は直接彼女に声をかけたときに、そのタイトルを尋ねた記憶がある。そうだ、『遥かなる冒険』だ。
周りの人々は黙って耳を傾けている。中には手拍子をしている人もいた。そして僕はまたしても彼女の歌に苛立っていた。ネズミ女は決して歌が下手なわけではない。歌唱法や発声には努力のあとがうかがえる。でもその歌はどうしようもなく僕を不愉快にさせる。彼女はいかにも気持ちよさそうに歌っていて、そして歌っている自分がこんなに気持ちいいのだから聞く人もきっと気持ちよくなるはずだと、無邪気に、そしてかたくなに信じている風に見える。自分の声や歌い方が、誰かを不愉快にさせるかもしれないという可能性など、頭の片隅にもないはずだ。もし何かのはずみにそうした考えが浮かんだとしても、あの女はあっさりとそれを退けてしまうだろう。彼女はそれをあっさりと退けることができる種類の人間なのだ。そんなことを考えて、僕は不愉快になっていた。

曲が終わって人々は拍手をした。妻も子供たちも拍手をしていた。
「帰ろう」と僕は言った。そうね、と妻が言う。子供たちは名残惜しそうにしていたが、駄々をこねるほどでもなかった。ネズミ女は次の曲の最初のコードを鳴らした。