ナナタン(友人の女性)

僕には親しくしている女性の友人がいる。彼女は「ナナタン」と呼ばれる(僕は彼女の本名を知らない)。
ナナタンとは2008年ごろに、とある音楽系のSNSを通じて知り合った。プロフィールの住所が同じ県の同じ町だったからという理由で、フレンド申請を送ったのだった。彼女に対して何か特に興味を覚えたわけではなかった。当時のSNSにおいては、見ず知らずの人にいきなり申請するなどというそうした無分別な振舞いも、比較的許されていた。
申請は承認された。礼儀として僕は彼女の個人ページに、承認してくれたことのお礼のコメントを送った。自分も同じ町に住んでいることを伝え、ナナタンのプロフィール画像を褒めた。プロフィール画像はピアノを弾いている彼女自身の姿を映した写真で、背の高い彼女は真っ黒なワンピースに身を包み、顔は長い髪に隠れていた。背筋を伸ばし、ほっそりした両腕を鍵盤に置いた姿は、どこか魔女めいていてミステリアスだった。
ナナタンも僕に返信コメントをくれた。それがはじまりだった。SNSを通じて何度かやりとりをした後、僕はナナタンと実際に会った。僕と彼女には音楽という共通の話題があり、やがてクラシック音楽のコンサートなどに一緒に行くようになった。当時僕は現在の妻である女性とすでに交際していた。僕は妻にナナタンを紹介していない。だから妻はナナタンのことを知らない。

今日も僕はナナタンをコンサートに誘った。ラフマニノフのピアノコンチェルトの演奏会。我々はタクシーでコンサートホールに出かけた。ところで僕は用心してナナタンを自分の車には乗せないようにしている。ナナタンの髪は長く、妻の髪は短い。そういうことも理由である。
会場のホールは人でごった返していた。僕らはロビーでコンサートホールの扉が開くのを待っていた。そのときナナタンがだしぬけに、僕の妻と子供は今の時間何をしているのかと尋ねた。
夕食を終えて、テレビでも見ているんじゃないかな、と僕は答える。
僕は妻に、今日コンサートに行くことをもちろん伝えている。知り合いと一緒だとは言ったが、その知り合いが女性だとは伝えていない。でも少なくとも嘘はついてはいない。すべてを語っていないだけである。そしてすべてを語る必要などないのだ。たとえ夫婦間のやりとりであっても。
妻には嘘をつきたくないからね、と僕が言うと、ナナタンは含み笑いをした。
そうするうちにアナウンスが流れ、ホールへ続く大きな扉が開いた。ナナタンと僕はホールに入り、前から7列目の席に着いた。少しすると照明が落ちて、それからステージに演奏者たちが現れた。拍手が起こり、それがやむと音楽がはじまった。
ソリスト若い女性ピアニストは我々と同じ下関市の出身だった。独特なリズム感を持っていて、その個性のためラフマニノフの音楽は一種異様なものに変貌していた。興味深い演奏だったが、ナナタンに言わせると、彼女も演奏を楽しんではいたが、ピアニストはまだ技術的に粗削りで、メゾフォルテがフォルテのように聞こえるという。僕にはそんな細かい違いはわからない。ナナタンはやけに鋭い耳を持っている。彼女が音楽について語る感想を聞くとき僕はいつも驚かされてしまう。同じコンサートを鑑賞していたのに自分は何も聞いていなかったのではないかという気にさせられる。

コンサートの後、ナナタンが部屋に来ないかと誘った。僕はどこかでコーヒーでも飲もう、と提案したのだが彼女は嫌がった。ナナタンはもともとなぜかカフェやレストランやファーストフード店をあまり好まない。
そのとき、時刻は8時半で、9時すぎには帰宅すると妻に伝えていたのに、僕はナナタンの誘いを受けていた。それでタクシーに乗って彼女が住むマンションまで行った。