都市の鼓動

かつて夜の都市に響く音に魅了された時期があった。僕はそれらの音をすべて自分の耳で聞きとり、記憶したいと望んだ。当時、僕は日が昇っている間は決して目を覚まさず、いつも暗くなってから起き出して、そして夜どおし街を歩き回っていた。
巨大なバイパス道路の下にある公園、観覧車のふもと、工場のそばの細い路地、それぞれの場所に、固有の音が鳴り響いている。僕は音を求めて街をさまよう。ルートは一定ではなかった。気まぐれに、即興的に、深夜の徘徊ルートは変更された。気の向くままに……、より魅力的な音が聞こえるほうへ。

僕はいつも一人だった。僕と同じように夜の音を追い求める人に出会ったことがない。人々は都市の音になど興味を持たないのだ。彼らは刺激を求め欲望を満たすのにいっぱいいっぱいで、音に耳を傾ける余裕などない。僕は彼らのことが気の毒だった。彼らの耳は、どこにでもあるどうでもいいような音だけを聞き取っている。それらの音に邪魔されて、微弱で繊細な都市の鼓動を聞き取ることができない。そのことが気の毒だった。本当に、涙が出そうなほど気の毒に感じた。
そして僕はそのためにこそ孤独だった。この音を聞き取れる者は多くはない。そのことに気づいたとき、僕は自分の孤独を知った。でも別に寂しくも悲しくもなかった。

そんな生活は3年ほど続いた。
20代が終わろうとしていた。僕の耳はもうあの音を、都市の脈打つ鼓動を、聞き取れなくなりかけていた。引き上げる頃合いだと知った。僕は街を去ることを決めた。どうせこの場所でできそうなことはもうすべて試してしまった。野望も願望もすりへっていた。

🏙

引っ越しの当日は、かつてないほど綺麗に晴れた日で、空は青一色、建物の窓ガラスが日差しを浴びてきらきら光っていた。普段の灰をまとったみたいな陰鬱さはその日だけは消え失せていた。この街を去るんだ、と思うと、ひどく名残惜しい気分になったが、同時に開放感もあった。ひどく後悔しながら、十分に満足していた。離れたくないと思いながら、やっとここから逃げ出せる、とも思った。相反し対立する感情がせめぎ合って、両者の趨勢は全くの互角であり、それゆえに僕は、ほとんど無感覚と同じ状態にあった。
引っ越し先の街はここよりずっと小規模で、都会とは呼べない。音なんてほとんど何も聞こえないだろう、と思った。

引っ越し作業を終えて、マンションのエントランスに降りたとき、床にビー玉が落ちているのを見つけた。近くに小さな子供と母親がいて、僕はその子供が落としたものだと思って、ビー玉を拾い上げて、子供に手渡そうとした。すると子供は、それ、あげる、と言った。
僕はどうしていいかわからず、母親のほうを見たのだったが、母親は僕の目を見てただ小さく頷いた。それで僕はお礼を言って、ビー玉を譲り受けた。

水色のビー玉、それが街を去るにあたって僕が受け取った、唯一の餞別。