彼女の遺伝

1. 出会い

帰りの電車で毎日のようにその女性と出くわした。そして僕は見かけるたびにその女性をいつも目で追ってしまっていた。彼女がひどく醜かったから。ちょっとぎょっとするほどに醜かった。間違いなく僕がこれまで目にしたことのある女性の中で最も醜かった。それは僕だけの個人的な印象ではない。電車に乗り合わせた人々は、誰もが彼女の顔を見たとたんにいかにも不愉快そうな表情を浮かべた。赤ん坊や子供は泣きだすことさえあった。誰も彼女の隣には座らず、彼女がそばを通るときには必要以上に身体を離して道を開けた。車内がどんなに混んでいても、いつも彼女のまわりにだけはぽっかりと空間ができていた。
僕が彼女と言葉を交わすに至ったのは、その無人の空間を、ある日僕がうっかり侵したためだ。その日、僕はひどく疲れていてひどく眠く、空いていた席を見つけると半ば吸い寄せられるようにそこに座り、そのまま眠ってしまったのだった。その空いていた席というのが、彼女の隣の席だったのである。

目覚めたとき、僕は何か柔らかく温かいものに頭を預けていた。それは彼女の左肩だった。僕は勝手に彼女の肩に頭を乗せて眠っていたのだ。すでに電車は停まっていて、乗客はみな降りていた。僕は降りるべき駅を乗り過ごして終点まで運ばれていたのだった。車掌が目の前でうんざりした顔つきで僕を見下ろしていたが、僕が起きたのを見るとどこかへ去っていった。

すぐ目の前に見覚えのある顔があった。彼女はまっすぐ正面を向いていた。そのとき不思議なことに、僕は彼女の顔をさほど醜いとは思わなかった。もちろん美しいとは言えないまでも、どこにでもある平凡な女の顔として、僕はその横顔を見ていた。あるいは彼女の左肩の感触が判断に影響を与えたのかもしれない。彼女は醜いだけでなくひどく太ってもいたので、その肩の感触はぶよぶよしていて温かく、そこに頭を乗せたときの感触は心地よいと言えなくもなかった。

僕は彼女に向き直り、ありがとうございました、と言った。勝手に肩を貸りて眠ったことに対するお礼のつもりで、そんなことをとっさに口にしていたのだが、その場合、それはやや不自然な台詞ではある。感謝を伝えるにしたって他に言いようがあるはずだ。いきなりありがとうと言うのは変だ。お礼より先にまず謝るべきだったのだ。
彼女は僕のほうに顔を向け、よく寝ていらっしゃったわ(ウフフ)、と言った。
僕は改めて謝り、改めてお礼を言った。

彼女は、僕があまりによく眠っていたので起こすのに忍びなくて、そのために本来降りる駅で降りられなかったらしい。つまり僕は彼女にひどい迷惑をかけてしまっていた。僕は何度も謝り、お礼を言って、彼女が乗り過ごした分の電車の代金を払った。

駅を出た我々は同じタクシーに乗ってそれぞれの家まで帰った(もちろんタクシー料金も僕が払った)。そのとき僕は彼女の自宅を知ったが、それは僕の住居からそう遠くはなかった。
そんなふうにして我々は知り合いになった。それ以来、僕は帰りの電車で彼女を見かけると隣に座るようになった。

2. 交際

親しくなってから、彼女は自分が醜さのためにどれだけ被害や苦しみを被ってきたかを、僕に語って聞かせた。まるで他人事のような語り口だったが、内容は切実なものだった。彼女はほとんど誰からも嫌われていた。生まれて以来ひたすら彼女はその醜さのために様々な苦痛や被害を被ってきた。ただ醜いからという理由だけで、ある全く身に覚えのない悪事の当事者にされてしまったり、不当に非難されたり、見知らぬ人からいきなり暴力を振るわれたりした。同情せずにはいられないお話だった。しかし彼女は常人よりはるかに打たれ強く強靭なメンタリティを備えていたので、嘆いたり、泣き言を漏らしたりもしなかった。醜い人間がそうした性質を備えている場合、人々はそれを強さや逞しさとはみなさない。彼らの目にはただのふてぶてしく不遜な不愉快な人間としてしか映らない。そして彼女のような人はますます嫌われることになる。彼女はそうしたことをちゃんと理解していた。「それでも強くならないわけにはいかなかったの。強くなろうと決めて実際に強くなったの。そうじゃないと生きていけなかったから」

醜い人物は内面もまた醜いのだと、勝手に人は決めつけてしまう。まったく非論理的でありながら、なぜか多くの人を納得させてしまうその考え方によって、人々は彼女を嫌うのだった。しかし彼女には多くの美質がある。僕はそのことを知っている。何度も僕は彼女が困難に陥った人を助けるのを見た。僕自身にも親切にしてくれた。それはほとんど感動的なほどの親切さだった。彼女は困った人を見過ごすことができないし、不幸な人の立場を自分のこととして想像することができる。言うまでもなく、人は外見のみで判断するべきではない。外見はすべてを表しはしない。
問題は、彼女のそんな美質を知るほど誰も彼女と深く付き合おうとしないことだった。僕だって、あの時疲れていなければ彼女の隣には座らなかったはずで、したがって彼女の親切さを知ることもなかった。誰もが彼女の醜さにたじろいで距離を置く。しかしその距離からでは彼女の優れた面は見えない。

3. プロポーズ👰

交際をはじめて一年が過ぎるころ、僕は彼女に結婚を申し込んだ。その頃には、僕は彼女の醜さがまったく、いやほとんど気にならなくなっていた。ふとした時にその顔の造作の出来の悪さに改めて愕然とすることはあった。たとえばすれ違う人が彼女の顔を見てぎょっとするような表情を浮かべるようなときに。でも普段一緒にいるときにはほとんど忘れていた。
結婚の申し出に対して、彼女は意外なほど難色を示した。私にその資格はない、と彼女は言った。そのほかには一切何も言わなかった。ただ資格がない、と繰り返すばかりだった。
結婚に対して尻込みする君の気持ちは理解できるよ、僕だって不安がないわけじゃない。でもそろそろ君も僕も、人生の次の段階に進むべきだと思うんだよ、それに結婚には資格なんていらない、というより誰にでもその資格は備わっている。誰もがその権利を持っているんだよ、と僕は言った。
彼女は長く考え込んだ後で、少しだけ待ってちょうだい、と言った。

4. 小旅行

あるとき彼女は彼女の故郷に僕を誘った。その話を聞いて僕は、ようやく彼女は結婚の意思を固めて、実家の両親に僕を紹介するつもりなのだろう、と解釈したが、実際はそうではなかった。彼女は実家に帰るつもりはないのだと言った。両親と顔をあわせたくはないのだという。ただときどき故郷の景色がどうしても見てみたくなる気分のときがあって、今回はせっかくだから僕にもいっしょに来てもらおうと思ったのだ、と言った。

それで秋のある日、僕と彼女は車に乗って彼女の生まれた町へ向かった。それは町というより村と呼ぶほうが適切な、ごく小規模な集落だった。山に囲まれた平地に集落が密集して、畑がやたらと多い静かでのどかな場所だった。車で走っていてもめったに歩行者をみかけない。
いいところでしょう、と彼女が言って、僕は同意した。それは本心だった。おそらくずっと遠い昔から同じままの手つかずの風景は、眺めていて快いものだった。

彼女は実家の位置を僕に教えることさえしなかった。我々は街に唯一ある旅館に宿泊した。
「ときどき一人でふらっと帰ってきて、町をうろつくの。定期的にどうしてもここの空気を吸い込みたくなるのよね」

夜になると街は昼間よりもさらに静かになった。それほどの深い静寂を体験したことのなかった僕は、なぜか心がざわめく感じがして落ち着かなかった。

彼女は僕をいろんな場所に案内した。川べりの散歩道、コスモスの花畑、薄暗い森、丘の上の公園、どこへ行っても人けがなく、静かだった。そして奇妙に時間の流れが遅い土地だった。太陽は衰弱しているみたいに少しずつしか動かず、日差しもどこか弱弱しかった。

滞在2日目の午後、彼女は彼女が言うところの「とっておきの場所」に僕を案内した。その場所はこの静かな集落の中でもひときわ静かで、幼いころからの彼女のお気に入りなのだということだった。山道を10分ほど歩いたあと、我々は森の中にあるため池のほとりに立っていた。ほとんど正円に近い真ん丸な形をした、直径15メートルほどのため池で、水は深い緑色をたたえ、周辺に生い茂る紅葉に染まった木々が水面に映っている。ひっそりした場所だった。その静けさはほとんど完全だった。鳥の声さえしない。静かすぎて怖くなるほど。

――ため池のほとりで彼女は拒絶する

「やっぱり意思を変えることはできない。あなたと結婚はできない」と彼女は言った。「あなたのことは好きだけど、でももし結婚したらあなたは当然、次のステップを望むようになるでしょう。あなたは子供を欲しがるはずようになる。そうじゃない?」
確かに僕は子供を作ることを望んでいた。彼女の血を引いた子供を見てみたいとも思っていた。
「私は子供を産みたくないの。産むべきではないの。それは許されることではないの」
「何が許されないの、」と僕は尋ねた。
「私の血を受け継ぐ存在をこの世に産み落とすことは、間違ったことなのよ。この血は断ち切らねばならない。だって私の子供はきっと私と同じように醜くなるから。私にしたって両親の醜さをきちんと受け継いでこうなったんだからね。父と母の両方の、醜い部分だけを受け継いで、私という人間はできているのよ。あの二人はうんざりするほど見事に、まるで選んたみたいに、彼らの醜い部分だけを私に継承させたのよ。遺伝というシステムは呪うべきものだわ。だから子供は作りたくない。両親の罪は私が責任をもって終わらせる」

僕はほとんど口を開かず彼女の話を聞いていた。どうしてそのとき何も言わずにただ黙っていたのかわからない。彼女が語った言葉は、プロポーズを拒絶する理由としては十分ではないように思われた。つまり子供を作るかどうかは、結婚そのものとは必ずしも関係がないはずだ。僕は確かに子供が欲しかったが、彼女が産みたくないというのならもちろんその意思を尊重するつもりでいた。子供を産まなくても結婚はできるよ、とは僕は言わなかった。ただ口をつぐんでいた。どういうわけか、いろんなことに気が進まなくなっていた。

木々の枝が風に吹かれて揺れ、その音は耳に届くほどでもなく、緑色の水面には彼女と僕の二人の顔が映っていた。彼女の顔は白っぽく、動きも色もなく、どこかそれは死に顔のように見えた。もっと歳を取ったあとで彼女が死ぬとき、その死に顔はきっとこんな風なのだろう。その顔はもちろん醜かった。彼女の顔に見慣れてその醜さをめったに意識することのなくなっていた僕でさえ、目をそむけたくなるほど醜かった。僕は水に映ったその顔を、隣にいる現実の彼女の顔と見比べてみようかと思ったが、すぐに思いなおしてやめた。そして遠くの山に視線をそらした。
そのとき僕の意気を挫き、僕をあきらめさせたのもやはり、彼女の醜さだったのかもしれない。

5. その後

結婚の話はそれっきり、そのあとも我々は交際を続けたが、2か月後に別れた。
今でも時々彼女と帰りの電車で出くわすことはある。でも言葉を交わすことはない。そして彼女の隣の席はいつも空いている。