何もない部屋

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春休みに入ったばかり、部屋はいつものようにがらんとしている。物は何もない。窓がひとつあるだけ。でもカーテンはかかっていない。必要ないのだ。ここは何にも使われていない部屋。でも開かずの部屋というわけではなく、ドアを通じていつでも出入りできる。母親が定期的に掃除しているので、基本的には清潔な状態が保たれている。
僕が物心ついたときにはすでに、この部屋はこんなふうに扱われていた。この一室を使わない理由について、僕は母にも、死んだ父にも尋ねたことがない。なぜか昔からそのことをとくに疑問に思わなかった。家の中に空き部屋があるということが変なことだとは思わなかったのだ。父が死んだあと、マンションのローンは免除になったが、かつては毎月ローンを支払っていたはずで、その支払額はもちろんあの部屋のぶんも含んでいるのだから、この空間を利用しないことは、無駄であり損失であるはずだった。
何か事情があって使えなかったのだろうか?知りたくても父にはもう聞けないし、母親にも、いまさら聞くのは何となく不自然な気がして切りだしづらかった。いまだに僕たち家族はこの部屋について話題にすることを避けている。

僕は時々この部屋に入る。何もしたくないとき、考えたくないとき、ぼんやりしたいとき、この部屋に入り、壁にもたれたり寝そべったりして、何もせずに時間をひとりで過ごすのだ。母と妹はたぶんそのことを知らない。妹はこんな部屋にはまるで興味がなさそうだし、母も、掃除をする時以外には足を踏み入れるところを見たことがない。彼女たちはたぶんこの部屋に僕ほど関心を持っていない。
でも待てよ、もしかしたら母も妹も、家に一人でいるときにはこの部屋に入って、秘密の時間を過ごしているのではないか?もしかしたら父もそうだったのかもしれない。絶対にありえないとは言えない。今僕がこの部屋にいることだって家族は誰も知らないのだから。我々はみなそれぞれこの部屋で個人的な秘密の時間を過ごしている。そしてそのことをお互いにひた隠しにしている。そんなことを想像して、僕は思わずにやにやしてしまう。真相を知っているのは部屋だけ。ああ、あの白い壁が、つるつるのフローリングが、隠された秘密を物語ってくれたら。しかし部屋は黙して語らない。相変わらず無表情な6畳の誰もいない部屋。

西日が差し込んで畳の上に窓の形の四角い光が床に落ちている。僕はその光が時間に合わせて少しずつ範囲と色を変化させる様を見ていた。平行四辺形の陽だまりは少しずつ狭まり、少しずつ薄暗くなり、やがて消えた。部屋は薄暗くなり、もちろん電灯も部屋にはない。
僕は立ち上がって窓に歩み寄った。ビルが立ち並ぶ街並みを眺めながら僕は思う、この何もない部屋がこの家の中で一番好きだと。テレビのあるリビングや、好きなもので埋め尽くされた自室より、ずっと好きなのだった。母と妹にその考えを表明したら、意外と彼女たちも同意するかもしれない。家族の誰もこの部屋を積極的に使おうとしないのは、おそらく僕らが、この部屋が空白のままであることを望んでいるからだ。もちろん誰も決してそんなことは口にしないけど。我々はこの部屋を利用しないことでこの部屋を活用している。何もない空間にも意味はあるのだ。僕はこの部屋のおかげでひとつのことを学んだ。つまり人が居住するスペースには、何もない空っぽの空間がひとつはあったほうがよいということ。この何もない部屋にいるとき、僕は他のどこにいるときよりもリラックスしている。非実用的な無人の空間でひとりきりで時間を過ごすことは不思議なほど心を落ち着かせてくれる。

今度母か妹が家に一人でいるとき、出かけたふりをしてこっそり戻って来て、様子をうかがってみようか?彼女たちがこの部屋に入るところを見ることができるかもしれない。しかし僕はすぐに首を振る。いや、そんなことはするべきではない。たとえ家族であってもお互いに立ち入ってはならない領域はある。それを侵すべきではない。いたずらではすまない。基本的なマナーの問題だよそれは。もっとも彼女たちが本当にこの部屋に出入りしているかどうかは知らないし、それは僕の想像でしかない。もし想像通りだったとしても、母も妹も僕よりずっと用心深いから、簡単に隙を見せたりはしないだろう。……僕は背後を振り返った。ドアは閉じている。入るときに閉めたはずだし、今もちゃんと閉じている。視線………いや、違う。僕は気配とか視線なんて感じるほど敏感なたちではない。それでも気になって、しばらく僕は部屋のあちこちを見渡していた。

でもそのうちに、だんだんどうでもよくなってきた。別にいい、誰が見ていたとしても。僕はただ窓辺に立っていただけ。とくにみっともないふるまいをしていたわけでもないのだし。
僕は夕日が沈みきるまで外を眺めていた。部屋には相変わらず誰もいない。