クリームソーダに溺れて死ぬ

ねえ。
何?
何か飲みたい気がするわ。
そうだね
一言で済むようなことでも、いちいちねえと呼び掛けて、僕の返事を待ってから用件を伝えるのが、彼女の癖だった。
もう少し行くと、喫茶店があるよ。コーヒーが飲める、素敵な喫茶店だよ。窓から海も見える
大した海じゃないわ。
僕は答えず、ハンドルを傾けながら、道路の右手側で青く輝く海を横目で見る。大した海じゃない、その言葉の余韻が車内にしばらく漂っていた。彼女はまた「ねえ」と言った。
何?
海に行かない?
海ならすぐそこにあるよ。
違うよ。もっとちゃんとした海。砂浜とか海の家があるような、海水浴場みたいな海のこと。
今からじゃちょっと、無理だよ。
違うわ。今日じゃなくて、そのうちに。いつか近いうちに、連れて行ってよ。
いいよ。僕も久しぶりに泳いでみたい気分だったんだよ
泳がないわ。
え?
泳がない。ただ海に行くだけ。
泳がないで何をするの。
水平線を眺めたり、砂浜を歩いたり、魚釣りをしたり、できることはいっぱいあるわ
泳ぐのは好きじゃないの。
どうしてそう思うの。泳ぐのは好きよ。でも海を眺めるのも好きなの。波打ち際を歩いて貝殻を拾ったりするのも好きなの。
じゃあ来週にでもどうかな。12日なら空いてるよ
あなたいつでも空いてるじゃない。いつでも暇じゃない。
うん。
でもその日は都合がいいわ。決まりね。新しい水着を買うわ。
やっぱり泳ぐんじゃないか⁉(僕はケタケタと笑った。)
泳がないわ。それとこれとは別。海には行く。新しい水着も買う。でもその二つの事柄に関連はないの。わかる?
わからない。
来週は晴れるかしらね。
きっと晴れるよ。この先、夏が終わるまで、うんざりするほど毎日晴れっぱなしだと思うよ。
まあ別に天気はなんでもいいんだけどね。
浮き輪は買わないの?
え?
水着と一緒に、浮き輪を買ったりはしないの?
彼女は答えなかった。そうするうちに車は喫茶店に着いた。その喫茶店はひどく古びていて、ぱっと見では営業しているのかどうかわからない。駐車場で車を降りるとたちまちじっとりした熱気に包まれた。僕らは階段を上って店内に入った。海を臨む窓際の席がひとつだけ空いていて、僕らはそこに向かい合って座った。彼女はアイスコーヒーを、僕はクリームソーダを注文した。
子供みたいなものが好きなのね。
いつもこの店にへ来るとクリームソーダを頼むんだよ。おいしいんだよ。さくらんぼもついているんだよ。
彼女はまるで興味がなさそうに相槌を打った。ときどき顔を左に向け、無表情な目つきで海を眺めていた。するとウェイトレスがそれぞれの飲み物を運んできて我々の前にそれぞれ置いた。僕は丸いアイスクリームをスプーンでつついてソーダの上で意味もなく何度か転がした後、すくって口に入れた。
ねえ。
何だい。
死にたいと思ったことはある
そりゃあるさ。僕はバニラアイスの甘みを味わいながら答えた。
何回くらい?
数えきれない
一番最近のは?
そうだな、つい昨日だったよ。
本当かしら。
詳しくは語れないけれど、何しろ暗い話だからね。でも確かに思ったんだよ、ああ、死んでしまいたいって。
嘘だわ! あなたの言う死にたい気持ちなんて、せいぜい少し落ち込んだとか、少しいろんなことが嫌になったとか、その程度のことでしょう。そんなのんきにクリームソーダなんて食べてる人が、昨日死にたいと思ったばかりだなんて、信じられないわ。
それは偏見だよ。むしろそういう気持ちだからこそ、僕はクリームソーダを食べたくなったのかもしれない。何しろ僕はこの食べ物というか飲み物が大好きだからね。
あなたって生は永遠に保証されるものと思って生きているでしょう。生きるということについて真剣に考えたことがないのよ。生がさまざまな苦しみや迷いや懊悩に満ちたものであることを知らない。そうしたものは自分とは縁がないものと思っている。自分だけは特別だと思って生きてる。そうした態度がことあるごとに見受けられるわ。そしてそんな態度がときどき私には我慢ならないの。
それはつまり、僕がお坊ちゃん育ちのブルジョワだからなのかなあ⁉
彼女は答える代わりにアイスコーヒーの氷を揺らした。
君の言う通りかもしれない。でも僕がそんな風に見えるとしても、それは僕のせいじゃないよ。僕が自ら望んだわけじゃなく、僕の生まれ育った環境や境遇が、僕をそういう人間にしたんだよ。僕は死の間際にもクリームソーダをおいしく味わいたいと願っている人間だよ。いわばクリームソーダこそが僕の人生の真髄なんだよ。クリームソーダさまさまなんだよ。僕はそういう姿勢で生きてきたんだ。たとえ君が気に入らないとしても、いまさらそのスタンスを変えることはできない。
アイスコーヒーを飲み干した彼女は素早く手を伸ばすと僕のグラスに残っていたさくらんぼをつまみ、そのまま口に入れた。僕はその行為を非難しようかと思ったが、考えてみれば自分が特にさくらんぼが好きなわけでもないことに思いあたったので、結局黙っていた。
まだ注文していい?今日もあなたがおごってくれるんでしょう。
まあね。
彼女はウェイトレスをつかまえてクリームソーダを注文した。すぐにそれは運ばれてきたが、彼女はストローも差さずにテーブルに置かれたグラスをしばらく横からグラスの中身を覗き込んでいた。透き通ったエメラルド色のソーダ水の向こうで海が午後の日差しを受けてきらきらと光っている。
ねえ、と急に思い出したように彼女は顔をあげた。
何?
さくらんぼあげようか?
いや、いらない。
彼女は窓の外に視線を移し、遠くに小さく見える船を指ではさむような仕草をした。