変な知らない女に声を掛けられる

お店の入り口をくぐろうとしたとき、そばに立っていた女に声を掛けられた。女は僕に、簡単な質問に答えなければ入店できない、と言った。その時点で立ち去ってしまえばよかったのだが、僕はそうしなかった。ほんのわずかに僕は興味を覚えてしまい、つい女の話を聞いてしまったのだった。

女は何だかよくわからない演説めいた主張や意見のようなものをまくしたてた。ようやく女がしゃべり終えたとき、僕は面食らってしばらく口がきけなかったのだが、何とか頭の中で彼女の話をまとめ、彼女が声をかけてきた目的を理解した。つまり女は僕に、「今度の選挙ではどの政党に投票するか」を尋ねているのだった。
謎めいたまわりくどいおしゃべりの中からその質問をつかみとることは容易なことではなかった。でもとにかく僕は彼女の意図を理解した。しかしそんな質問に答える気にはなれない。初対面の他人に支持政党など尋ねることは、ひどくマナー違反だし下品な行為である。もしかすると返答を拒否したら僕は入店を禁じられるのだろうか?だとしたらこれは差別であり、思想・良心の自由に反する。店は外から見た限りでは何の変哲もない喫茶店であり、政治的集会をうかがわせる雰囲気はなかった。
僕はすぐに逃げ出さなかったことを改めて後悔した。僕はすでにこの変な女の話を聞いてしまい、そして聞き終えた今となっては、何か意見を口にせずにはいられない気分になっていた。それで僕は女に告げた。「支持する政党なんてない、選挙なんて行ったこともない、こんな国で、政治家になろうとする奴、実際になった奴、みんなゴミのような人間ばかりだ」
明らかに僕は喋りすぎてしまっていた。でももう遅い。何か食べるために店に入ろうとしたのに入り口で止められて変な女の長話を聞かされて、僕は苛立っていたのだ。なんでもいいからこの女にひとこと言ってやりたい気分だった。いわば女の挑発に乗ってしまった格好だった。確かに僕にはこういうところがある。少し感情を乱されただけで、すぐ余計なことを、言わなくてもいいことを言ってしまう。
それじゃああなたは無政府主義者なんですね、アナーキーなのね、と女が言った。その目には笑みが浮かんでいた。要するにこの女は僕をなめきっているのだ。馬鹿にしているのだ。僕はまた不愉快になったが、もはや何も言う気にはなれない。言葉が思いつかないし、空腹だし、喉が渇いてもいた。僕はアナーキストなのだろうか?いや、おそらく違う。そんな立派な呼称で表されるような存在ではない。思想など何もないのだ。政治家はみんな愚かだとは言ったものの、そもそも僕は政治になど特に関心がないし、テレビや新聞でたまに見かける政治かの顔つきを見て、何となく気に食わない、と思ったことがあるというだけのことだった。選挙に行ったことがないというのも嘘だし、興味本位で投票に行ったことは何度かある。つまりさっきの僕の発言は苛立ちから発せられた衝動的なものだった。そして子供っぽい狭量な意見だった。そんな言葉を口にしてしまったことで、僕は自己嫌悪に陥っていた。言葉を発する元気もなくしていたので、何も言わずにいると、女はご協力ありがとうございますと言い、入店を許可してくれたが、僕は弱弱しく愛想笑いを浮かべつつ、その場を去った。