音のない小部屋で

その男は白い小部屋に閉じ込められて毎日24時間、ひっきりなしに音を浴びせられながら過ごし、狂気に陥らなかった唯一の被験者だった。同じ環境に置かれた被験者たちはみなすぐに精神に異常をきたし、妙な言動を発したり、暴れまわったり、胸や首を血が出るまでかきむしったりしたが、その男だけはそうした兆しを一切見せず、ごく平然としていた。精神も肉体もいかなる変化も異常も示さなかった。
検査とインタビューの結果、男はある特殊な能力によって、音から身を守っていることがわかった。男が自ら語ったところでは、彼は意思によって(「頭の中のモードをちょっと切り替えるだけ」と男は表現した)自らの周囲に目に見えない分厚い壁を張り巡らせることができる。その壁の内側に閉じこもっている限りは、どんな音も彼の耳には届かない。そうやっていつでも自由に沈黙の中へ逃げ込むことができる、というのだった。
誰もが疑ったが、信じないわけにはいかなかった。何しろ男は誰もが耳をふさぐような轟音のただなかにあっても、いかにも自然に、いや、むしろ普通よりもいくらか快適そうに過ごしていたのだ。
いつそんな能力を身につけたのかについて、男は正確に答えられなかった。彼自身にもそのことはわからないらしい。少なくとも物心ついたときにはすでに、その能力を当たり前のように使いこなしていた。
幼いころに不愉快な音や声を頻繁に耳にする機会があったのではないか、とある精神科医は推測した。たとえば家庭内で両親が激しく言い争っていたり、あるいは虐待のようなものを受けて残酷な言葉をしょっちゅう投げつけられたり、そうした不愉快な音や言葉から身を守るために、音声をシャットアウトする能力を得たのではないか。
しかし実際にはそのような背景は男には存在しなかった。彼は極めて平均的な地方都市の中産階級の一家に生まれ育った。両親の関係は良好で、そして彼らは一人息子である彼のことをほとんど溺愛していた。虐待やいじめを受けたり、暴力の被害に遭った経験もなかった。

長期にわたって続いた実験の間に、男の「能力」はさらに強化された。いつしか彼はいちいち「モード」を切り替えなくても音が発せられた瞬間に無意識に壁を作り出せるようになっていた。それにより、彼は睡眠中であっても目を覚ますことなく眠り続けることが可能になったのである。実験中、何度か音声によって眠りを妨げられたことが、その能力の開発につながったものと推測される。小部屋に閉じ込められるという特殊な環境に適応するために、男は自らの能力を発展させたのだ。
そのあとからは、音によって男の眠りが破られることはなくなった。どんなに大きな音が響くなかでも、彼は気持ちよさそうにすやすやと眠り続けていた。
実験に携わった医師や科学者たち、言い換えれば拷問官たちは、戸惑い、うろたえ、最後には恐れをなした。結局彼らは諦め、男を小部屋から解放した。