雪の海岸にて

12月のある朝、珍しくこの地方に大雪が降った。
僕は海岸へ散歩に出かけた。家のすぐ目の前が海岸なのだ。本当にすぐ目の前、玄関を出て10歩も歩けば、すでに砂浜に立っている。
海岸を散歩することは僕の習慣である。早朝に、あるいは日没後に、ときには午後の真っただ中にだって、僕は海岸をうろつく。それは今や食事や睡眠などと並んで生活に不可欠な行為になっている。一日も欠かしたことはなかった。

普段は黒々としている岩場は今朝、雪で覆われてくまなく真っ白だった。あちこちに、誰かが作った雪だるまがあった。それを見て僕は不思議がった、いったいいつ、誰が、雪だるまなんて作ったのだろう。雪が降り出したのは昨日の夜で、今はまだ朝の5時だった。雪だるまを作るための時間などほとんどないはずだった。
でもそうしたことは考えてもわからないし、とにかく散歩を続けた。

海岸の端のほうまで来たとき、また珍しいものを見つけた。それは小型の飛行機だった。頭から真っ逆さまに墜落したような格好で、白い機体は雪の地面に斜めに突き刺さっている。損傷はまるで見当たらない。あたりに残骸が散らばったり、負傷した乗客が倒れていたりするわけでもない。その物体は奇妙に静謐な印象があった。飛行機の形をした芸術作品のようにも見える。
小型であろうとなかろうと飛行機の墜落は重大な事故であり、騒ぎにならないはずがない。でも僕は現場のすぐそばに住んでいるのに、それらしい物音は聞かなかった。昨日からこのあたりはずっと静かだった。昨日まで海岸に墜落飛行機などなかったことについては神に誓うこともできる。何しろ僕は毎日海岸を散歩しているのだ。昨日は朝と夕方の2度、散歩をした。どこにも飛行機など絶対になかった。僕は海岸を端から端まで何度となく往復したから、そんなものがあれば気づかないはずがない。
僕は飛行機のまわりをうろつき、機体をあらゆる角度から観察してみた。やはりどこにも傷も損傷もなく、出来立てのようにきれいだった。あるいは本当にどこかの現代芸術化がこしらえた作品なのかもしれない。裏側へまわったとき、そこの地面にまた雪だるまがあった。それはやけに手の込んだ雪だるまで、貝殻で作られた目玉はキラキラと輝き、木の切れ端で作られた口元は、笑うみたいに曲がっていて、折れた枝で作られた両腕は、万歳をするみたいに誇らしげに掲げられていた。雪だるまは飛行機の根元でそうやっていかにもご機嫌そうだった。