眠れない夜

夜うまく寝付けなかった。眠気がないわけではないのに、いつまで経っても眠りは訪れず、ただベッドの上で転がるばかリ。気持ちよさそうに眠っている妻や子供たちを見て、うらやましくてほとんど怒りさえ覚えた。午前3時過ぎに、ついに僕は眠ることをあきらめて、家を出て外を歩いた。近所の家もすべて寝静まっていて、車も人も通らず、聞こえるのは虫の鳴き声だけ。暗い道路を歩きながら、僕は学生時代の友人を思い出していた。その友人は音に敏感な性質で、いろんな雑音をマスキングするためにアパートの部屋にいつもいろんな音を流れしていた。その友人があるとき僕に尋ねたことがあった。眠るとき聞くのにいちばんいい音とは、どんな音だと思う、と。
僕は思いつく限りいろいろ答えた。波の音、雨音、鳥の鳴き声、火が燃える音、川のせせらぎの音、ホワイトノイズ、風の音。友人はどれも違うと言った。「女のすすり泣く声だよ」と彼は言った。その音が一番うまく眠れるんだよ。それを聞きながらだと、いつもほんの数分で眠りに落ちてしまうのさ。
僕は冗談だと思った。友人は実際にその音声を聞かせてくれた。彼は女の泣き声を録音したオーディオファイルをパソコンや携帯電話にいくつも保存していたのだった。スピーカーから女の泣き声が流れだし、僕は彼と二人でそれを聞いたのだが、いろんな種類の泣き声を聞くうちに、何だか怖いようなぞっとするような、とにかく落ち着かない気分になって、とてもそんなものを聞きながら眠ることができるなどとは信じられなかった。
女の泣き声というのは、思いのほかいろんな種類やパターンがあってね、と友人は言った。一つとして似ていないんだ。そのことはとても面白いよ。
彼は映画とかドラマとかアニメを見ているときに女の泣く場面に出くわすと、すぐに録音するのだという。もちろん俳優や声優ではない現実の女の泣き声の音声も、彼の「コレクション」には含まれていた。苦痛にあえぎながら泣きわめく女の声がいくつもあって、それらの声は大げさすぎないためにある種の生々しさがあり、明らかに映画やドラマの音声ではないようだった。しかしそうした音声をどこでどうやって録音したのかについては、彼は詳しくは語らなかった。
小さな女の子のものと思しき泣き声もあった。それは本当に耳をふさぎたくなるほど鋭い悲鳴のような泣き後だったので、こんな声を聞きながら眠るなんて無理だろうと僕が言うと、友人は、声の大きさなどは関係ないのだと答えた。
「女が泣いているその姿を思い浮かべたり、その心情を想像することが、僕を落ち着かせるんだよ。と彼は言った。
君は異常みたいだね。
でも嘘をついているわけじゃないよ。

ある程度年を取った女の、女の低いすすり泣きの声もあった。その見知らぬ女は、すすり泣きながら何かをひっきりなしに呟いていたが、その声はひどく小さくて聞き取れず、しかも抑揚をひどく欠いていて、どこか機械音声のようだった。
僕はいくつかの音声ファイルをコピーして譲ってもらった。何度か寝る前に聞いてみたことがあるのだが、背筋が寒くなることはあっても、眠くはならなかった。