耳に残って消えない曲

不愉快なメロディが耳にこびり付いて消えないことはよくある。大嫌いなのに口ずさめるし、ついでに歌詞まで思い出せてしまう。たちの悪いことに、不愉快になる曲というのはたいていよく売れている曲で、つまりあちこちでかかっているから、聞きたくなくても勝手に耳に入ってくるのだ。だから容易に忘れることができない。

そういう曲ばかり集めてプレイリストを作ったらどうなるだろう、とあるとき彼は思い立った。無数の憎むべき大嫌いな楽曲のなかから、特に最悪のものを10曲選び出してプレイリストにしてみるのはどうだろうか?探してみるとそれらの曲はすべてSpotifyにあった。それで彼は実際にプレイリストを作成した。一生聞きたくない思っていた不愉快な曲だけを集めたプレイリスト。
もちろん彼はそんなものを聴くつもりはなかった。何しろ吐き気がするほど嫌いな曲ばかりなのだ。それなのに何を思ったか、ある日、彼は再生ボタンを押してしまう。それはある種の好奇心だった。あるいはマゾヒスティックな欲求だった。あえて大嫌いな音楽に身を浸すとどんなことが起こるのか、彼は知りたかった。

ヘッドフォンをつけて目を閉じ、耳だけに意識を集中させる。音が体内に流れ込んできて彼の全身を満たした。そして彼はそれらの楽曲がいまだ彼にとって少しも色あせていないことを知った。つまり彼は不愉快になった。呼吸が苦しくなり、吐き気を覚えるほど不愉快になった。
それなのに彼は聴くことをやめようとしない。プレイリストが一周して、はじめの曲がリピート再生されても、彼は聞き続けた。ヘッドフォンを耳に押し付けて、固く目を閉じ、ひたすら音に耳を傾けていた。まるで苦行に耐える修行僧のように。

ほとんど一日中そうしていた。プレイリストが15周するころ、彼は絶望的な気分になっていた。楽しいものや美しいものは、世界には何もないのだ、という気分だった。彼は夢をみていた。あるいは夢に似た幻想の風景を目にしていた。それは瞼の裏の闇よりさらに暗い闇がすべてを黒く染める死の国の景色。そのとき彼は現実にその場所にいたのだし、その世界の空気を呼吸していた。これが結果なのだ、と彼は思う。不愉快な歌を聞き続けた結果、希望を失ってしまった。何もかもが奪われ真っ黒になってしまった。すべては音楽によってなされたのだ。素晴らしいものだとされる音楽にはこういう力もあるのだ。彼はそのまま気を失うみたいに眠りに落ちた。

目覚めたとき、身体が震えていた。そしてプレイリストはまだ続いていた。彼はヘッドフォンをもぎ取るように外して床に投げつけ、自らを呪縛から解放した。そのあともしばらく身体に力が入らず、立ち上がることさえままならなかった。彼は深呼吸をしながら、ひたすらじっとしていた。
しかるべき時間ののち、ようやく動けるようになると、彼は身体を起こして立ち上がり、洗面所に行って顔を洗った。鏡に映った自分の目を見たとき、彼は自分の目がいつもと違う思った。さっきまで彼が覗いていた死の世界の風景の色が、瞳に刻み込まれているみたいだった。