氷の腸

夜中、彼はその家に忍び込んだ。浴室の窓ガラスが割れていたので、その穴から手を差し込んで簡単に鍵を開けることができた。そのことからもわかる通り家は荒廃しきっている。夜になっても家に明かりがともることはない。しかし空き家というわけではない。ずんぐりした体型の中年の男が家に出入りするところを何度か見かけたことがある。でもその男はすぐに帰っていくし、めったにやってこない。
だから彼は、侵入するのにほとんど用心しなかった。彼はときどき興味を引かれた空き家にそうやって不法侵入する。それは彼の道楽のようなものである。この家は空き家ではないが、それに限りなく近く、そして彼の好奇心を刺激した。彼はいちおう用心しながら家の中を歩いた。小さな家で、内部に家具はほとんどなかった。古い木製の椅子とテーブル、コンセントの入っていない冷蔵庫の中身は空っぽで、照明器具さえない。それでも意外なほど清潔で、埃っぽくもなかった。
彼はしばらく意味もなく室内をうろついていたが、ある部屋のドアの前を通りかかったとき足を止めた。下部の隙間から床に青白い光が漏れていたのだった。彼はドアに耳をつけて様子をうかがった。音は聞こえてこない。数分間ほど、彼は用心深く動かずにそうしていた。しかしやがて意を決したようにノブに手をかけ、ドアを押し開けた。
それは天井の高い広々とした真四角な部屋だった。床一面にいくつも、鉄の台座に支えられたなガラス箱が整然と列をなして並んでいる。それぞれの箱の上部にはライトが備え付けられており、それが青白い光を発していたのだった。彼は一番近くにあった箱を覗き込む。細長い管をぎゅっと丸めて固めたような形の見慣れない物体が、箱の中央に浮かんでいた。光はそれを青白く照らし出している。彼の目にはそれは生き物の腸に見えた。そうとしか見えなかった。他に似ているものは思いつかなかった。
他のガラス箱にもすべて同じような物体が、同じようにおさめられていた。形も大きさもそれぞれかなり異なっていたが、細い管がねじれたようになっているという構造だけは共通していた。いくつかのものは人間の腸に見えた。迷路みたいな小腸の周りを太い大腸が囲っている。
彼は最初、作り物だと思っていた。模型のようなものだと思っていた。しかしいくつも見ていくうちに、だんだんそうは思えなくなってくる。いろんな生き物の本物の腸を実際に氷漬けにしたものにょうに思えてくる。寒いほど低い部屋の室温がその想像を後押しした。そうだ、部屋は不自然なほどに寒かった。冷房が効いているのだろうか、しかしそのような機械は見当たらない。寒気はだんだんひどくなり、彼は自らの腹部、彼自身の腸があるあたりに、もっとも強い冷たさを感じた。その感じは腹痛に似ていたが、痛みはなく、ただひたすら冷たいだけだった。自分の腸まで凍りつつあるのではないかという気がした。彼はしきりに腹部をさすっていた。
誰がどんな目的のもとに、こんな部屋を作り上げたのか、あの男はそして何者なのか……でも今、彼は何も考えられなかった。これ以上この部屋にいたくもなかった。腹部の冷たさは耐えがたいものになりつつあった。彼は這うように部屋を出て、家から去った。
帰宅して、熱い風呂に浸かり、横になって布団にくるまっても、冷気は去らなかった。そのまま彼は眠ったが、目覚めてもなお、その不快な感触は腹部にとどまっていた。下腹に手を当ててみるとかすかなに冷たさを感じた。本当に少しずつ、腸が凍りつつあるのかもしれない。何にしても自分が見たのは見てはならないものだった。あんな家に立ち入るべきではなかったと彼は思った。そのあとから、彼は空き家めぐりをやめてしまった。