窓に消えた亡霊

かつて僕は山のふもとに立つ古い家に一人で暮らしていた。その家には幽霊が出た。それまで僕は、幽霊と出くわした経験を一度も持たなかったので、はじめてその二つのぼんやりとした人影を目にしたときには、本来であればもっと驚き、もっと取り乱していてもおかしくないはずだった。しかし僕はきわめて平然と、冷静に事態を受け入れていた。怖がることも逃げ出すこともなく、当然そこにあるもののように「彼ら」のことを眺めた。そう、幽霊は一人ではなかった。男女二人一組で、現れるときはいつも肩を寄せ合って並んで立っていた。風貌はぼんやりしていてよくわからなかったが、雰囲気や姿勢などから推測するに、二人ともずいぶん年老いているように見えた。そしておそらく夫婦だった。
二人の幽霊が部屋のいろんなところに立っているさまを毎日のように僕は目にした。彼らは恨めしそうな表情を浮かべるでもなく、血に濡れているでもなく、ただ静かにそこに存在していた。肩を寄せあってなにかひそひそと話していることもあった。
僕は彼らに対して恐怖を覚えなかった。僕は特に豪胆な性格というわけではない。どちらかと言えば臆病である。僕が怖がらなかったのは、二人の幽霊の体型や並んだ時の身長差が、両親を思い出させたからかもしれない。女のほうは男に比べてかなり背が低く、そのシルエットは僕の母にそっくりだった。僕の母もかなりの小柄だったのだ。
しかしそれが僕の両親の霊であるはずはなかった。両親は当時すでに二人とも世を去っていたが、彼らがこんな故郷から遠く離れた土地に建つ家で、霊となって僕のもとに出現する理由が思いつかなかった。もしそんなことが起こりうるのなら、これまでに住んだいろんな土地の家や部屋でも、同じ幽霊を目にしていなければおかしい。しかし前述の通り、僕は幽霊など一度も見たことはなかったのだ。
何にしても僕は幽霊たちの様子を眺めながら、恐怖どころかしばしば懐かしい気持ちを覚えていた。子供のころ、両親とともに暮らしていたころの気分を思い出すこともあった。

ある夜、僕は夜中に目を覚ました。頭の向きを変えたとき、窓際に立つ二人の人間の足が目に入った。幽霊はいつものように部屋に現れ、窓のそばに立っているのだ。僕は彼らの青ざめた足を眺めながら、今見たばかりの夢の余韻をかみしめていた。ひどく美しい夢のはずだったが、残っているのは美しいという印象だけで、内容はまるで思い出せなかった。
やがて物音が聞こえてきた。その聞きなれない音は、遠くから響く汽笛に似ていたが、しかし汽笛を鳴らす列車が現代の日本を走っているはずはない。その音は二人の幽霊が発していた。彼らは泣いていたのだった。おそらく僕が目を覚ます前から泣き続けていたのではないかと僕は思った。暗い部屋に彼らの悲しみが満ちていた。夜の闇に彼らの青白い涙の色がまじりあっていた。
僕は横になったまま二人の様子を見ていた。二人とも泣きながら、何かひそかに言葉を交わしていた。僕には内容は聞き取れない。声が小さいせいもあるが、それは日本語に聞こえなかった。文字にも表記できないようなサヤサヤという音が届くばかりだった。それでも僕は彼らの悲しみに同情しないわけにいかなかった。いつしか僕は彼らに愛着のようなものを覚えるようになっていたのだ。しかし僕にできることは何もなかった。
少し後で、顔に冷たい空気が触れた。ひんやりとした空気が頬を撫でるように流れていった。しかし風が吹くはずはない。窓は閉ざされているのだ。そしてその窓は、家のすぐ裏にそびえる山の崖の岩肌に接している。この家に暮らすようになって以来、その窓を開けたことはほとんどなかった。鍵もかかっているはずだ。しかし風の感触は気のせいではなかった。冷たい空気が顔や首に絶えず吹き付けている。
気がついたとき、二つの顔がすぐそばに浮かんでいた。いつ幽霊の夫婦が窓際からこちらへ移動したのかわからなかった。映画のように場面が転換して、いつしか二人は僕の枕元に立っていたのだ。僕は今まさに自分が夢をみているか、あるいは先ほど目にした窓辺に二人の幽霊が立つ光景が夢だったか、どちらかだと思った。いずれにしても彼らは僕を見下ろしながら何事かを語りかけていた。
その声は親しいものに向ける調子を帯びていた。しかしやはり言葉は聞き取れない。僕が感じることができたのはひんやりした風だけだった。気がつくと僕は涙を流していた。僕はそのことに自分でも戸惑った。なぜ泣いているのか、自分でもまるでわからなかった。目を閉じる度に、涙が目尻を伝って流れた。暗い部屋の中におぼろげに浮かぶ二人の幽霊の顔が、だんだん遠ざかっているように見えた。それが気のせいでないことに僕はやがて気づいた。視線を横に転じたとき、僕は空間に二人の幽霊の足が浮かんでいるのを目にした。いつもぴったりと床についていたはずの彼らの両足は、床から浮かび上がっていたのだった。そしてそのまま彼らは空間を滑るように移動し、窓ガラスに吸い込まれるみたいに消えてしまった。
汽笛のような音はもう聞こえなかった。部屋は静かだった。
僕は起き上がって窓を調べた。確かめるまでもなく窓は閉まっていた。僕は鍵を外し、窓を開け放つと、そよとの風も吹かない暗い夜の中に崖の暗い壁面が現れた。いた。夜空には奇妙に明るいくっきりとした星が瞬いていた。
その夜以来、幽霊は現れなかった。

ずっと後になって、その土地を大嵐が襲い、僕が暮らしていたその山のふもとの家は、ひどい土砂崩れに遭ってほとんど全壊してしまった。そのときの経験については語るつもりはない。誰でも想像がつく程度のひどい危機に陥り、生まれて初めての過酷で深刻な困難を味わった、というだけのことだけである。その事故によって、僕は多くの所有物を破壊され失ったが、奇跡的にも僕自身の身体はほとんど傷つくことなく、死ぬこともなくちゃんと生きていた。しかしもちろんその家にはそれ以上住むことはできず、今は僕はよその土地で暮らしている。