ガラスの上の眠り

今日はゴールデンウィークの最終日だし、天気も良かったので、窓ガラスを叩いて割った。床に散らばった破片の上に寝転がってみる。すると頭の中で音楽が鳴りだした。それはPlanning For Burialの『Threadbare』。僕をこのような行為に駆り立てたのは他でもないその曲だった。曲の後半に出てくる、つぶつぶしたピアノの音を聞くたび、いつも僕はその情景を思い浮かべていた。つまり破片の上でぐったり寝そべる光景を思い描いていた。そして僕はいつかそれを実現させるつもりでいて、今日という日は、それを実行するのにぴったりな日だった。何しろあまりに天気が良かった。他にもいくつか理由があるけれども、ここでそれらをいちいちあげるつもりはない。どれもつまらなくてぱっとしない、そしておそらく誰にとっても楽しい話ではないので、黙っておくしかない。

背中も首も後頭部も太ももの裏も傷だらけ、床は血に濡れている。念入りに何度も金槌でガラスを叩いたので、破片はひどく細かくなっていた。身体のあちこちがちくちくと、ざくざくと痛んだけれども、その痛みは、想像していたほどのものでもなかった。そのことは僕を安堵させる。安堵というか不思議な気分にさせる。破片の上に寝そべることは、もちろん快適ではないけれども、そんなにひどくもない。実際にやってみないとわからないことというのはあるものだ。
僕はまだ意識を保っている。もしこのまま死んだら、誰が最初にそれを知ることになるだろう? 僕には友達も恋人も知り合いもいないから、最初にそれを知るのは、おそらく両親だろう。しかし彼らは二人とも相当年老いているし、めったに連絡も取らないし(彼らは息子である僕を、すでに存在しないもののようにみなしている)、そんなに気も利かないから、彼らがそれを知るのは相当後のことになるはずだ。孤独な死、見捨てられた死。誰にも見つけられないまま風化し、ガラスの上で白骨化する僕の死体……気がつくと僕は笑みを浮かべている。それは何に対する笑いなのか? 愉快なことは考えていない。考えられるはずもない。誰がガラスの破片の上に横たわりながら楽しい夢想と戯れることができよう。それなのにもかかわらず僕は笑っている。つまり笑いというのは楽しい気分からのみ発せられるものではないらしい。
窓枠だけになった窓から風が吹き込んでくる。その風は思いのほか冷たい、5月だというのに。痛みはだんだん、当初よりさらに小さくなっていた。小さくなるというより、痛みという感覚から遠のくような、あるいは切り離されるような、そんな感じだった。一人で寝そべってにやにやしているうち、何だか本当に楽しくなってきて、日差しの色がいつもより明るく見える。音楽はまだ頭の中に響いていた。その旋律はなぜかひどくあいまいなものになっていたが、そのまま永遠に続きそうにも思える。
一度だけ、僕は寝返りを打った。そのあとのことは忘れてしまった。おそらく眠ったのだと思う。