夢のためのセカンド・ブレイン

怪我を負って入院していた一か月間、彼は毎日眠って過ごした。その間に多くの夢をみた。そのときの夢は彼がそれまでみたことのないほど、リアルでカラフルでスリリングで幻想的だった。一度も想像したこともなければ話に聞いたこともないような出来事が、次々と彼の脳裏で展開した。彼は過去も未来も深海も宇宙も、別世界さえも旅した。比類なき夢的快楽を存分に味わった。それは夢をみるというより夢に埋没する感覚だった。その時期、彼の関心の大部分は夢へと移行していた。夢が現実で現実は幻だった。どうせ怪我のために現実世界でできることなどなかったのだ。
夢はあまりに強く彼を引き寄せ、目覚めるのが困難なほどだった。いつも彼は、底なし沼の奥深くから、ぎりぎりのところで引き上げられたといった様子で、息も絶え絶え、命からがら目を覚ました。それほどに夢は彼を圧倒的な吸引力で飲み込んでいたし、彼もまた、その魅惑的な夢の世界から立ち去りたくなかったのだ。それが目覚めて消えてしまうことが名残惜しかった。そんな夢が毎日繰り返された。寝て起きるたびに彼はくたくたになったが、それでも充実していた。

退院してからも、彼は可能な限り眠りをむさぼった。彼は夢の快楽にとりつかれてしまっていた。仕事の関係上、彼は時間を自由に使うことができたので、望めばいつでも好きなだけ眠ることはできた。朝でも昼でもベッドに寝そべって眠った。夢をみることが彼の生活の主要なテーマになった。それまでの彼は、眠ることにほとんど関心を持たない人間だったのに、過剰な夢体験が、彼という人間を変えてしまったのだ。
しかしどれだけ眠っても、入院中のあの強烈で圧倒的な夢をみることはできなかった。彼がみる夢は現実を少しばかり大胆にしただけの、ごく平凡でありきたりなものに戻った。あのスリルも快感も、渦巻きに呑み込まれるような没入感もそこにはなかった。そんな夢から覚めることは少しも惜しくなかった。彼はいつもあっさりと目覚めた。

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ところで彼の仕事とは開業医である。しかしまともな開業医ではない。彼が医師であることはほとんど人には知られていない。つまり世間を構成する大多数のまともな人々には知られていない。医師としての彼を知っているのは、ある特殊な情報を手にすることができる地位にある特別な人たち、特定のネットワークに名を連ねた人々のみである。彼は資格を持つ者しか客に取らない、非合法なアングラ医師なのだった。彼の比類ない技術がそうした地位の実現を可能にした。
彼が専門とするのは一般の外科ではまず不可能な特殊な手術である。身体の一部を別の人間や動物のものと入れ替えたり、機械の心臓や内臓を体内に移植したり、そうした非倫理的で非人道的な手術を行う。顧客は厳然と選別される。たいていは裕福で、なおかつ特殊な目的や願望を抱いた人たちである。彼らは極秘のネットワークによって彼の情報を聴き寄せ、彼のもとを訪ねるのだった。彼は法外な手術料を要求し、患者たちは気前良く支払った。
彼の生活の身の回りの世話は年老いた通いの家政婦が行っている。その家政婦の老女は唖のように無口だった。彼が老女を雇い入れて以来、彼は数えるほどしか彼女の声を聞いていない。しかし家政婦としては有能だった。彼は相当な高額の料金を彼女に支払っていた。

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彼はただ夢をみるだけのために作動するもう一つの頭脳を、自らの頭部に増設することを計画していた。彼が考えるところでは、その第二の頭脳が上手く作動すれば望む限りどんな夢でもみることができる。入院中にみたような複雑で突飛な夢を再現することもできるし、さらに強力で圧倒的な、想像力や知性の限界を超えた夢さえ実現できるはずだった。さらには眠らずとも起きたまま夢をみることも可能になるだろう。
そしてある夜、彼は手術室として使用している自宅の地下室で、自らの手でその手術を行った。機械式の脳に神経を接続し、頭部に縫合して付着させる。似たような手術はこれまで何度か行ったことがあった。手術はさしたる困難もなく終わった。彼の頭は巨大な瘤が生えたみたいにひどく不格好な形になったが、もちろん彼は外見など気にしなかった。そうして夢のためのセカンド・ブレインが彼の頭部に加わった。
さっそく彼は眠った。セカンド・ブレインは想像を超えて良好に、活発に働いた。セカンド・ブレインが提供する夢は圧倒的な強度とリアリティと色彩を備えていた。そこで目にするすべては夢と呼ぶにはふさわしくないほど、強固な現実性と細部を備えていた。まるでそれはどこか未知の宇宙の論理と法則によって築き上げられた新しい別の世界だった。

一日中、睡眠時だけでなく覚醒時にも、彼はひっきりなしに夢をみて過ごすようになった。そして彼の現実は夢に飲み込まれてしまった。別の宇宙を生きている彼にとって現実の世界は何の価値もない。夢に溺れたままおびただしい時間が過ぎていった。生活は破綻し、肉体は衰えた。医師としての仕事など続けられるはずもなかった。手術の依頼はすべて断り、別次元の宇宙の中でひたすら遊び続けた。
数少ない彼の知り合いは彼のそうした変化に眉をひそめた。彼は正常で常識的な人物として知られてはいない。狂気と正気の境目をさ迷うような目つきをした、腕だけは抜群に優れた非合法サイコ医師。それが彼に対する人々の評価だった。彼の頭に突如できた大きな瘤について、彼らはさまざまな憶測をささやいた。その瘤が意味するところは誰にもわからなかったが、その瘤ができたのを境に、医師が完全に狂気へと陥ってしまったことについては、疑うものはいなかった。

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医師を廃業したあと、彼は有り余る時間をほとんどすべて夢みることに費やした。セカンド・ブレインは息つく間もなく次々と彼に新しい夢を提供した。あらゆる肉体的な制約を無視した現実では望むべくもない圧倒的な快楽、悪魔と歌い交わす狂える饗宴、想像力の限界を超えた美とスリルと恐怖、夢が与えるそうした興奮は彼を退屈させなかった。
彼が覚醒している時間は一日のうち合計でほんの2時間ほどしかない。その間に彼は生命を維持するための最低限度の用を済ませる。すなわち食事、入浴や清拭、排泄といったようなこと。それらの行為は、筋力の衰えた現在の彼にとってかなり重い労働だったので、何をするにもお手伝いの老女の手を借りなくてはならなかった。やせ細った身体、干からびたみたいに表情のない皺だらけの顔はほとんど死人のようだった。
お手伝いの老女は、彼の頭に突然巨大な瘤ができても、彼が毎日眠ってばかりいても、何も言わなかった。もともと彼女はこれまでにも何があっても雇用主に干渉することがなかった。老女はもちろんセカンド・ブレインのことなど何も聞かされていなかったし知らなかったが、まるですべて承知しているみたいな態度でいた。
彼が半廃人と化して以来、老女には給料も支払われなくなっていた。それにもかかわらず、なぜか彼女は彼のもとを離れず、ほとんど住み込みのようなかたちで彼の身の回りの世話をつづけていた。

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セカンド・ブレイン完成から2か月が過ぎる頃には、彼が覚醒している時間はほとんどなかった。文字通り一日中彼は夢の世界をさまよっていた。意識の大部分はすでに夢の世界へ運ばれ、ただの抜け殻でしかない肉体は滅びゆく一方、脈拍はそうとう微弱になっていて、多くの点ですでに死んでいるのと変わりなかった。限りなく屍に近い人間として、彼はなおも夢をみつづけていた。彼がセカンド・ブレインと呼んだあの奇怪な瘤のような異常な機械は依然として最大限に働き、なおも活発にめまぐるしい夢をあふれるほど彼に供給し続けていた。
寝室のベッドの上に横たわっているのは、どす黒く干からびた皮と肉と骨とが形作る不格好な塊。何も知らない人が見たらそれが人間だとはまず信じないだろう。目は閉じられているが、口は開きっぱなしで、そこからは涎とともに何かわけのわからない呪文のような寝言がときどき漏れる。
一日に何度か、老女が寝室にやって来て、汗や涙や唾液や排泄物を除去した。毎日変わりなく彼女は自らの仕事を淡々と行っていた。ときどき老女の視線は眠る彼の上に向いた。そしてその頭の横にくっついた奇妙な異物へも。しかしやはり彼女の顔には表情らしきものは認められない。彼女はただ黙って彼の身体や顔を拭き、部屋を清掃する。それ以上のことは何もしない。

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寝室に悲鳴が響く。死にかけの肉体が眠りながら叫び声を発しているのだ。その声には絶望と恐怖が満ちていた。悲鳴は昼夜を問わず何度となくこだまして壁や天井を揺るがした。彼の家は人里から遠く離れていたので、その叫びは町まで届かなかった。
彼はこれまで悪夢とは無縁だった。眠って過ごしたあの一か月の入院生活の間にも、悪夢などまったくみなかったし、セカンド・ブレイン増設後にも、彼がみるのは快い夢ばかりだった。だから彼の念頭には悪夢のことなど久しく失われていたし、さらに彼は、セカンド・ブレインが望むとおりの好きな夢だけをみせてくれるので悪夢などはなくなるのだと、楽観的に構えてもいた。しかし彼の肉体が衰弱するにつれて、まるで待ち構えていたかのように、徐々に悪夢が夢の世界を蝕むようになった。
当然ながら、悪夢もまたセカンド・ブレインによって増強されている。グロテスクで醜悪で邪悪なイメージが彼の意識にとめどなく流れ込み、それらすべてが現実以上の克明さで描き出された。彼は夢の中で、無数の虫が床を這う狭い部屋に閉じ込められたり、皮膚を剥がされたり、下水や汚水を腹が破れるまで飲まされたりしながら、実際にそれを体験しているのと同じ苦痛を味わった。彼はベッドの上で輾転反側し、叫び声をあげ、涙を流し、糞尿を垂れ流し、嘔吐を繰り返した。それでいて彼は決して眠りから覚めることができない。セカンド・ブレインが覚醒を許してくれないのだ。
老女は何度も寝室を覗きにきた。そして床をのたうち回って苦しむ主人の姿を目にした。しかしやはり彼女は何もしなかった。彼の眠りを覚ますことはできないと考えたのか、それとも他に意図があったのかは不明である。彼女はいつも何もせずに静かに自室に引っ込むのだった。

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やがて叫び声も途絶えた。咽喉が潰れて声が出なくなってしまったのだ。悪夢にうなされながら彼は右手で自らの頭に触れ、そこから飛び出している瘤のような異物を掴み、それを力を込めて引っ張った。もちろんその程度の行為でそれがもぎ取れるはずはない。しかし無意識のうちに行っていたその行為によって、彼は数十時間ぶりに目を覚ました。彼は、ベッドの上で上体を起こそうとしたが、筋力がひどく弱っていたために、うまくできなかった。何度か試みては倒れ、また身体を持ち上げようとしたとき、ようやく光に順応した彼の目が、ドアの外に立つ何者かの姿をとらえた。それはお手伝いの老女だった。老女は彼のほうをじっと見つめていた。その顔にはいかなる表情もなく、そしてやはり押し黙っていた。
彼は老女にある指示を与えようとした。口からはかすれた吐息が漏れるばかりで、声にはならなかった。しかし老女は、すぐに背を向けてその場を立ち去り、数分後に戻ってきた。彼女は手に銀色の弁当箱のようなケースを携えていた。それは彼が手術に使用する道具一式が収められたケースだった。老女は地下の手術室からそれを彼のために取りに行ったのだ。彼女はまさしく彼の指示を、そして彼の望みを、正しく理解していた。
彼はそのケースから一本の外科手術用のメスを取り出した。その刃先を、彼の頭とセカンド・ブレインとの接合部にあてがい、ゆっくりと動かしはじめた。ゴリゴリという音がして疑似の皮膚が剥がれてゆく。血の混じった液体が切断された部分からほとばしってあたりに飛び散り、老女にもかかった。つくりものの第二の頭脳は彼の頭部から離れた。それと同時に、彼の生命も終わりを迎えようとしていた。彼は手足を広げた姿勢で、激しい痙攣を起こしたようにしばらく全身を震わせていたが、それもやがておさまり、ベッドに仰向けに倒れこんだ。すでに呼吸は止まっていた。彼は自らを悪夢から解放し、生命からも逃れた。あとには擦り切れた布のような粗末な肉体だけが残った。頭から切り離された物体が手から落ちて、ごとんと音を立てて床に転がった。

老女は顔色一つ変えずにすぐそばで一部始終を眺めていた。全てが終わってから、彼女は部屋を出て浴室に行き、浴びた液体を洗い流した。
寝室に戻ってきた老女は、ベッドの上に横たわるかつて主人だった男の亡骸を無言で見下ろす。血に濡れた死体の口元には、いまだ愉快な夢を見続けているような微笑が、薄く浮かんでいた。
老女は床に転がっていた楕円体の物体のもとに歩み寄り、それをそっと持ち上げると、それを抱えて寝室を出て行った。
その後、老女は彼の家を去り、行方をくらませた。

住むものを失った家は静けさに包まれた。床に残った血痕の上に埃が音もなく降りつもっていった。

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数日後に匿名の通報を受けて家を訪れた警察官が遺体を発見した。警察官は最初、ベッドの上に落ちていた黒ずんだぼろ雑巾のような物体が、人間の死体だとは信じられなかった。
警察は家政婦の老女の存在を割り出し、行方を捜索したが、その足取りはつかめなかった。