入学式の朝

午前4時過ぎに目が覚めて、そのあと眠れなかったので寝室を出た。リヴィングでカーテンを開けて外を眺めると、外はもちろんまだ暗く、どの家の窓にも明かりは灯っていない。なぜか心細くなり、コーヒーを作って飲んだ。夜が明けて朝になるまではあと数時間、それからはじまる新しい一日は、劇的というほどではないにしても、節目となる一日ではあるはずだった。娘のユイは今日から小学生になる。買ったばかりのピカピカしたカーキ色のランドセルを背負って、彼女は毎日小学校に通うことになる。弟のケイは幼稚園の真ん中のクラス、すなわち「あおくじら組」に進級する。二人の子供たちの人生は、まだはじまったばかりで、僕はこの先、彼らが成長することを助け、見守らなければならない。そこには多くの大変なことがあるはずだが、その覚悟はもちろんできていたし、またそこには多くの喜びもあるはずだった。僕はそれを楽しみにもしていた。

しかしその暗い早朝に僕が感じたのは何か重いものに身体を押しつぶされるような息苦しさだった。黒い大きなぶよぶよした球体のようなものが、背後から押しつぶそうとするような感覚であり、それはほとんど憂鬱とか絶望呼ばれる感情に似ていた。たとえば悪夢から覚めたばかりの時、よくそんな気分になる。そういうのは一時的なデプレッションのようなものなので、たいていは時間が経てば消える。僕はコーヒーを飲みながらそれが去るのを待った。台所の中にあるいろんなものに視線を配っていた。逆さにして置かれたグラス、赤と黒のコーヒーメイカー、窓枠の上に置かれた一輪挿し、冷蔵庫に貼られた書類やメモ、子供たちが食器棚の戸に貼り付けたたくさんのシール。壁のカレンダーの桜の木の写真、天井の壁紙の幾何学模様、それらは僕が時間をかけて築き上げた僕の家庭というものを構成する要素の一部である。突然僕は自分が虚構の世界の中にいるような気分になる。いや、虚構とまではいわなくても、ここにあるもののすべては本当は僕のものではないのではないか、僕ではない別の誰かのもので、そして僕は何かのはずみでここに運び込まれてしまった、いわば迷える存在なのではないか。そう思うと何もかもがどこかよそよそしく見えてくる。そうした違和感を抱くことは、とくに珍しいことでもないが、しかしそのとき僕を襲ったそれはこれまでよりずっと強力だった。ほとんど眩暈を起こしそうなほどで、そして背中にはまだあの黒い球体の重みが消えずに残っている。僕は椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じた。すると闇の中にちかちか光る物体が浮かび、それは目を閉じた暗闇の中をふらふらと漂っていて、その軌道をたどっているうちに、頭の奥に眠気の萌芽のようなものを感じて、うとうととしていたら、背後で物音がした。それは妻の足音だった。
目を開けたとき、妻はダイニングの入り口をちょうどくぐるところで、僕がそこにいることに気づいて彼女はちょっと驚いたような声をあげた。
もう起きてたん、と妻は言った。
あまり眠れなかったのだと僕が言うと、彼女はちょっと考えるような顔をして、眠れんことって、よくある?と言った。
まるで知り合ったばかりみたいなやりとりだったが、思い返してみれば確かにそういう話はしたことがなかった。僕が眠れない夜を過ごすとき、いつも妻は眠っていたので、彼女は僕が眠れないときのことを知らないはずだ。僕もそんなことは別に話さない。反対に、僕がぐっすりと眠りこんでいるときに妻が目を覚ましていたということも、おそらくあるのだろう。僕は彼女は一度眠ったら目を覚まさない人間だと思い込んでいるが、いつもそうだとは限らない。
ときどきね、と僕は答えた。
妻はテーブルの反対側の椅子に腰を下ろして溜息をつき、ああ疲れた、と言った。
僕は笑った。起きたばっかりなのに、もう疲れた?
起きたばかりは、身体が重くて、…疲れた感じなんよ
今日は僕が作るよ、何が食べたい?と言うと、妻はほとんど間髪入れずに「ホットケーキ」と答えた。それは大げさに言って少女のような言い方だった。それで僕は冷蔵庫から牛乳と卵を取り出し、棚からボウルを出した。卵と牛乳をかき混ぜていると階段のほうから小さな足音が聞こえた。

 

『いつも静かな場所』おわり