夜のプール

夜が思いのほか明るいのは満月のせいだ。月光を浴びて銀色にきらめく夜のプールは、どこか生き物のように見える。四角い枠に閉じ込もって息をひそめるようかんみたいな巨大な生き物。僕は飛び込み台の上からそのさまを眺めていた。風はなく、冬にしては暖かい夜だった。小高い丘の上にあるこのプールの周辺では、夜になると人けがまったく途絶えてしまう。聞こえるのは近くの林から響く鳥の鳴き声ばかり。

僕がこうして夜中のプールにひとりで忍び込むのは初めてではなく、もはや誰かに見つかるかもしれないという不安を覚えることさえなくなっていた。ここには夜の要素をギュッと凝縮したみたいに夜らしさに満ちている。ある意味では自分の部屋に一人でいるときよりリラックスしているかもしれない。そして飛び込み台の頂上は僕のお気に入りの場所なのだった。

唐突に音がした。僕は顔をあげる。重いものが水に落ちるような音が、確かに聞こえた。プールを覗きこむと水面に波紋が生じている。その波紋は飛び込み台の対岸あたりから生じているようだった。僕はそのあたりを暗闇越しに見つめる。音から推測するに、水に落ちたのはさほど大きなものではないらしい。しかしそれなりの重みをそなえてはいる。誰かがプールの柵の外から石か何か投げ込んだのだろうか。それともプールサイドに転がっていた何かが、ひとりで水に落ちたのだろうか。他にもいろんな可能性を考えたが、どれもいまいち信じられなかった。明らかに今このプールには僕のほかに誰もいない。でも音は確かに聞こえたし、波紋は確かに生じている。耳や目の錯覚ではない。夢を見ているわけでもない。

鳥の声はもう聞こえず、夜の深い静寂がすべてを包んでいた。僕は体育座りの姿勢になって飛び込み台の上でじっとしていた。心臓の鼓動が聞こえて、急に思い出したように寒さを感じた。歯が鳴らないように懸命におさえた。いつしか波紋は消えていて、水面はまたようかんめいたのっぺりした様子に戻った。次の音はどれだけ待っても聞こえてこなかった。

やがて僕はあれこれ考えるのを止めた。そして立ち上がり、飛び込み台の板を勢いよく蹴った。身体は一瞬宙に浮いて、それから3メートル下方の水面へ向けて、まっすぐ吸い込まれた。冷たい滑らかな水が身体をそっと包みこむ。どうしてだろう?水がそれほど冷たく感じない。暗いプールの中を泳ぐのは不思議なほど心地よかった。まるでいつまでもこうしていられそうな気がする。