森のガソリンスタンド

森のガソリンスタンドでバイクを給油した。利用客も従業員の姿もなく、計量器はひどく錆びていた。給油を終えたあと、僕はデジタル・カメラであたりの景色を写真に撮った。とはいってもそこにはわざわざ写真に収めるほどのものはない。森を貫く直線道路、道路沿いに生い茂る細長い黒々とした木々、上空に立ち込める灰色の雲、そうしたものが景色を構成している。それでも僕は何度かシャッターを押した。僕のカメラには、こういう無意味な寂しい景色がたくさん収められている。

給油エリアの柱に背中を預けてしばらくぼんやりした。とても静かだった。その静けさの中で、僕は立った姿勢のまま半ば眠りかけていた。朝から一日中バイクを走らせた僕は、自分が思いのほか疲弊していることに気づいた。だいたい僕は普段から自分の健康の度合いや体力について過大に評価する傾向がある。だから疲労も軽視しがちである。目を閉じると、いろんな音が聞こえた。森の奥から響く鳥の声、どこか遠くを走る電車の音、通り過ぎた街のざわめき、風が木の葉を揺らす音、そしてアスファルトが発する謎めいた軋むような音。頭の中ではそれらの音に合わせて図形がでたらめに描かれていた。それらはいずれもきわめて複雑な形をしていた。

いきなり人の声がしてまどろみが破れた。周囲を見回すと背後に一人の少女が立っていた。少女といってもおそらく10代の後半、高校生ぐらいに見える。紺色のシャツを着ていて、片手に清掃用のクロスを握っていた。シャツの左胸のところにはある図形が刺繍されていて、その図形はガソリンスタンドの広告塔に描かれたものと同じだった。どうやらこのスタンドの従業員であるらしい。無人だと思っていたこのスタンドにもやはり従業員はいたのだ。特に美しくもない少女だった。小柄で、少し太ってさえいる。クロスを握った手は白く、そして丸々としていた。彼女はいらっしゃいとかなんとか言うわけでもなく、そしてバイクを掃除するでもなく、ただ僕の斜め後ろに立って、まっすぐ僕を見つめていた。僕はなぜか決まりの悪い気分を覚えて、少し微笑んでみたのだが、彼女は表情を変えない。
山を越えるつもりなんだ、と僕は口にしていた。
少女は少し頷き、それからどことなくけだるげに動き出した。そして手にしていたクロスでバイクのフェンダーを拭きはじめた。もしかしたら口が利けないのだろうかと思ったが、そう思った矢先に少女は僕のほうを向いて「何しに行くの?」と言った。
「さあね? 目的はないよ。行きたいところへ行く。気の向くまま、風の吹くままにね」
「歌の歌詞みたい。でも良さそうだねそういうの」
「もちろん」
「いつも一人なの?」
「誰か、道連れがいてくれればいいんだけど」
「一人のほうがいいんでしょう?」
僕は彼女の声がとても澄んでいることに気づいた。
「君みたいな綺麗な子が一緒にいてくれれば、もっと楽しいんだよ」
「バイクに乗る人って、みんなそうなんだわ」少女は僕の言葉をまるっきり無視して言う。「一人が好きなの。孤独になりたがってるの」
そうかもしれない、と僕は答えた。そうかもしれない。風を受けて時速150キロで道路を駆け抜けるとき、単に他人から物理的に離れているだけでなく、他のあらゆる物事から自由になっている。そのとき僕は風のように孤独で自由なのだ。
「私も一緒に行くわ」と少女が言った。
「後ろに乗りなよ」
彼女は冗談よと言って笑った。
「あの山の向こうへ行くつもりはないわ」
「どうして?」
「ろくなことがないもの」
「どんなところなの?」
彼女は首を少しかしげ、なぜかためらいがちに言った。「小さな町があるわ」
「どんな町?」
「普通の町。ごく平凡な町なの。面白いものも危ないものも、良いものも悪いものも、適度にあるの。ひどくつまらないというわけでもなくて、退屈しない程度に、いろんなものが何となく足りているの。だからこそどうしようもないんだと思うわ。もう二度と行く気になれない」
「君はいつもここにいるの?」
「そうよ。家族を手伝ってるの。お父さんはこの店は私に任せて、よそに働きに行っているわ」
僕はバイクにまたがりエンジンをかけた。
「本当に山を越えるつもり?」と少女が尋ねた。
僕は頷いた。「君の言う通りの何もないところだとしても、そのことを自分の目で見て確かめてみたいんだ」
「男の子はみんな、似たようなことを言うのね」
「もう男の子という歳でもないよ」
「みんな同じよ」
僕は少女に手を振って去った。彼女は手を振り返すでもなく、走り去るバイクをぼんやりと見送っていた。