首なしケルベロス

大雨の午後、黒塗りのベンツが屋敷の前に停まる。黒いスーツに身を包んだ男が車から降りて、門の前に立った。体格はがっちりしていて頬の皮膚が薄く、眼光は鋭い。どんなに残酷なことも眉一つ動かさずやりそうな印象がある。人に好かれるはずもないタイプだった。

傘もささずに、スーツはたちまち濡れてしまったが、男はそのことを気にかけるでもない。男は手のひらをかざして大きな鉄の門の表面にくっつけ、力を込めて押した。門はびくともしない。男はそのことについてもまた、特に何を思うでもないらしい。開かないのは知っていたけれど一応確かめただけ、といった風だった。

それから男はすぐそばにある彫像に視線を向けた。一体のケルベロス像がそこに鎮座している。屋敷に住む彫刻家が制作して自らそこに展示したものだった。その彫刻家は、近隣の人々からは一種謎の人物とみなされていた。屋敷の外に出ることはまずなく、近所づきあいは皆無で、年齢も風貌も、性別さえ知られていない。しかしその正統的で力強い彫刻作品の評価は高く、しばしば地元の美術館の展覧会に出展されて注目を集めている。

門の前のケルベロス像には、地獄の番犬の特徴として有名なあの3つの頭が存在しない。首があるべき部分は、横からすっぱり切り落とされたみたいに平らになっている。胴体とか脚とか尾といった部分の特徴は、普通の大型犬と変わりはないので、だから実際のところそれが本当にケルベロスをかたどった彫像なのかは定かではない。彫刻家が、これはケルベロス像であると説明したわけでもない。それでも人々はそれはケルベロスなのだとなぜかきめつけているのだった。

彫像の頭部は実際に切断されたわけではなく、彫刻家がはじめからそのように作成したのだが、何者がその首を切って持ち去ったのだと、かたくなに主張する人がいた。ほかにも首なし像には噂がいくつもある。夜になると動くだとか、夜中に道路を凄まじい速さで駆けるのを見たとか、失くした首の代わりを求めてときどき街に出てめぼしい首を探し回るだとか、そういう怪談めいたエピソードに事欠かなかった。

確かに不気味な屋敷ではあった。蔦の絡まる黒い家、禍々しい冷気を放つ鉄の門、そしてその手前にうずくまる首なしケルベロス像、それらが醸し出す一種異様な妖気は、向こう見ずな者でさえ怖気づかせた。首なし像にまつわるオカルトめいた噂を容易に否定できない雰囲気は確かにある。
昼間でさえ屋敷の周辺には人けがなく、夜になると人通りは全く途絶える。人々は夜間には屋敷に近づかない。何か用があって付近を通らないといけないときには、わざわざ遠回りした。

 

黒スーツの男はずぶ濡れ、首なしケルベロスの表面にもいちめん水滴が伝っている。男は首なし像の首と胴体の境目の部分、つまり作られた切断面をそっと撫でていた。その仕草はどこか親しみを感じさせた。久しぶりに会った愛玩動物と交わすおなじみのやりとりといった風だった。

そのあと、男は妙なことをはじめた。切断面から手を放し、それよりやや上の何もない空間を漂わせるように、また手をふわふわと動かしはじめたのだった。それはまるで存在しないケルベロスの3つの頭を撫でるかのような手振りだった。まるで男の目には3つの頭がちゃんと見えていて、それらを一つずつ愛撫するかのように、その右手は動いていた。しかしもちろん現実の彫像に首はない。男は手の動きによって、虚空に透明な3つの頭を描き出していた。そしてその愛撫の仕方もやはりいかにも親密そうだった。冷酷そうな見かけに似合わず、男はケルベロスをずいぶんかわいがっているらしい。

大雨の中、男と首なしケルベロスのコミュニケーションはそのあともしばらく続いた。優れたパントマイムだったが、見守る人はいなかった。