ミツバとバジル君

今ミツバが手にしている小瓶の中には森の魔女に作ってもらった媚薬が入っている。彼女はそれを大好きなバジル君に飲ませるつもりでいる。それを飲ませてしまえば、彼の心は自分のものになる。彼女はそう信じていた。

ミツバは放課後にバジル君がよく川に釣りに行くことを知っていた。そこで彼女も川に向かった。果たしてバジル君はそこにいた。
ミツバは偶然通りかかったふりをして声をかけた。「あら、バジル君、こんなところで何をしていらっしゃるの」
「何か企んでるみたいだね」とバジル君は言った。ミツバの大人ぶった話し方に違和感を覚えたらしい。バジル君は妙に勘が鋭く、ミツバは隠し事が苦手である。
「何も企んでなんか、いなくてよ。人聞きの悪いことをおっしゃらないで下さるかしら」依然としてミツバの口調はおかしく、声も少し震えている。
「釣りだよ。見ての通りだよ。魚釣りをしているんだ」バジル君は湖の水面に視線を戻した。
「へえ」と言いつつ、ミツバはさりげなくバジル君の隣に腰をおろした。「よく釣れるの?」
「今日は、いまいちだね」とバジル君は言った。ミツバはすでに、バジル君のそばに置かれたペットボトルに気づいていた。バジル君がどこかに行っている間に、隙を見てこのペットボトルに薬を入れることができれば……

しばらく二人は水面を見つめていた。竿の先の糸は少しも動かない。ミツバの目には、バジル君は何もしていないように見える。
「ねえ、釣りって退屈じゃないの」
バジル君は否定した。こう見えても、絶えず釣竿を握る力を変えたり、わずかに動かしたりしているんだよ、見かけと違って集中力が必要で、退屈している暇はないんだよ、とバジル君は言った。
そしてまた長々と待ち続ける。いつまでたっても魚が釣れる気配はなく、バジル君が動きだす様子もない。ミツバはだんだんもどかしくなってきた。

どうかしたの、とバジル君が尋ねた。真剣な目つきでペットボトルを睨んでいるミツバに気づいたのだった。
「咽喉がかわいたの? それなら、あっちに自動販売機があるよ」
この人はやっぱり優しい、と思ったが、微妙に気が回らない人だ、とも思った。そんな自分勝手な考えを抱きながらも、ミツバは、ありがとう、いまはだいじょうぶ、と答えた。
そのあとも二人は釣りを続けた。その間にバジル君は一度だけペットボトルに口をつけた。中の飲み物はあと3分の1ほどになった。ミツバはやきもきしている。
私もこれから釣りを趣味にしようかな、とミツバは心にもないことを言った。バジル君は、ああ、いいんじゃない、と言った。
「釣りってどうやってはじめたらいいの」
「釣具店に行って、竿と餌を買う。それを持って海とか川に行く」バジル君はごく簡潔に答えた。
「私にできるかしら」
「できるよ。簡単だから。誰にでもできる。今ちょっとやってみなよ。練習だよ。魚がかかったらこのハンドルを回して、糸を巻けばいいんだ」
ミツバは竿を受け取り、手順を確認していた。するとバジル君は、ちょっとトイレに行ってくるから、と言って立ち上がり、その場を離れた。
ミツバはしめしめと思った。彼女は釣竿をいったん地面に置くと、ポケットから小瓶を取り出し、ペットボトルのキャップを外して、その中に媚薬を一滴注いだ。魔女から教えられたところでは、薬はほんの一滴で十分な効果が得られる。
手際よく一連の動作を行うことができたのでミツバは満足していた。薬をこぼしたり、うっかり飲み物の色が変わってしまうほどたくさん注いでしまったりしてしまわないか、不安に思っていたのだ。彼女は器用ではないし、しかも本番に弱い。
やればできるものね、これが恋の力なのね、などとミツバは呟いた。これで晴れて彼は私のものになる。……ミツバは口元に微笑を浮かべる。それはさながら世界征服を果たした人の笑い方だった。
そのあとミツバは何食わぬ顔で釣竿を握りなおし、湖面を眺めていた。

 

誰かが彼女の名前を呼んだ。振り向くとクラスメイトのローズマリーちゃんがいた。
「あなた、魚釣りなんてしてるの? ずいぶんご立派な趣味をお持ちなのね」
ローズマリーちゃんは高飛車でいやみっぽい性格をしている。そのうえバジル君とやけに仲が良い。だからミツバはもちろんローズちゃんに反感を抱いている。
「バジル君と二人っきりで釣りをしていたのよ。今彼トイレに行ってるから、その間、代わってあげているの」
ミツバのその言葉に、ローズマリーちゃんは顔色を変えた。
「それなら私も、ご一緒しようかしら。バジル君も私といた方がきっと楽しいでしょうし」
「あなた、用事があるんじゃないの」
「かまわないわ別に、すっぽかしたって」
ローズマリーちゃんはミツバの隣に腰を下ろした。なぜこの子はいつも私の邪魔をするのだろう、とミツバは思う。この場にローズちゃんがいると都合が悪い。森の魔女の説明によると、媚薬はそれを服用した後、最初に目にした人物に対して効果を発揮する。だからもしバジル君が媚薬を飲むとき、ミツバ以外の女の子がそばにいてはならない。彼が別の女の子を見てしまったりしたら計画は台無しになる。
ローズマリーちゃんを追い払う方法を考えたが、良い案は浮かばなかった。ミツバはだんだんいらいらしてきた。さっきまではバジル君が戻ってくるのを今か今かと待っていたミツバは、今では彼に戻ってきてほしくなかった。

「ねえこれ、バジル君のでしょう?」ローズマリーちゃんが置きっぱなしのペットボトルを指さして言った。「彼、いつもこのジュース飲んでるものね。私ノド渇いたから、ちょっと飲んじゃおうっと」
「だめだよ」とミツバは言った。
「どうして?」
「だってそれ、……バジル君のでしょ」
「かまわないわよ。それに、いつもやってることだもの」
「いつも?」
「普段から私たち、一つのボトルを分け合って飲んだりしてるの」
ミツバは顔を赤くした。ひどい、いやらしい、よくないことだわ、と言ったが、ローズマリーちゃんは耳を貸さない。しかも勝ち誇った様子でいる。そして彼女はキャップを開けて、本当にボトルに唇につけてしまった。釣り竿を握っていたミツバには制止するひまもなかった。
ミツバの頭の中をいろんな思いが駆け巡っていた。嫉妬心だけではない。こともあろうにあの媚薬をローズマリーちゃんが飲んでしまった。この場合どんなことになってしまうのだろう。せっかくうまくいったと思っていたのに、どうしていつもこういうおかしなことが持ち上がるのだろう?

なすすべもなくミツバはただ事の成り行きを見守っていた。ジュースを飲んだ後、ローズマリーちゃんはなぜか何も言わない。彼女はミツバの隣にしゃがんだまま、別人のようにおとなしくなっている。バジル君は戻ってこない。ミツバは嫌な予感がした。
いきなり誰かに髪の毛を触られてミツバはぞくっとした。横を向くと、ローズマリーちゃんの青い二つの瞳がすぐ目の前に浮かんでいる。
「ねえ、ミツバちゃんの髪って柔らかいのね」彼女はミツバの髪を撫でた。そのうっとりした、熱っぽいまなざしは、ミツバがこれまで見たことのないものだった。声の調子も普段とはまるで違う。あの挑戦的な響きがどこにもない。白い頬はバラ色に染まっていた。
「どうしたの?へんだよ」とミツバは言ったものの、原因はわかっていた。つまり薬の効果がこれ以上ないほど発揮されたのだ。
なぜかミツバはそのとき、ローズちゃんを振りほどこうとはしなかった。美人で色白で小柄なローズマリーちゃんは甘い香りがして、たとえ恋敵とはいえ、そんな女の子にもたれかかってこられるのは、決して悪い気はしない。それどころか、細いしなやかな指で髪の毛を優しく撫でられるうちに、ミツバもどこか心地よい気分になった。
そのあと、二人の少女はしばらく寄り添って過ごした。

 

ローズマリーちゃんも来てたの」と言いながら、バジル君が戻ってきた。ミツバは我に返った。そして本来の目的を思い出した。そうだ、私は彼のハートを奪うつもりだったはずなのに。
「遅くなってごめんね、ミツバちゃんに、ジュースを買ってきてあげようと思ったんだよ。それで自動販売機のところに行ったら、ちょうどミント君がいて……」
いいのよ、とミツバは言った。ローズマリーちゃんはまだミツバの肩にしなだれかかっている。バジル君のほうを見ようともしない。
ミツバはバジル君からジュースを受け取り、お礼を言った。そして釣り竿を返した。
「釣れた?」
いいえ、とミツバは首を振る。
「君たちって仲良かったんだね」
まあね、とミツバはけだるげに答える。
「意外だなあ!仲悪いんだと思ってたよ」
いまだに魚はかからない。バジル君はペットボトルを手に取り、残っていた中身をみんな飲み干した。
「さっきローズちゃんがそれ勝手に飲んでたよ」
そう?と言ってバジル君はなんでもなさそうにしている。その態度から察するに、ローズマリーちゃんが言っていたことは、嘘ではなかったのかもしれないとミツバは思った。本当に彼らは日常的に、いわゆる「間接キス」というやつを、行っていたのかもしれない。でもそんなことを考えても、なぜかミツバはもう何も感じないのだった。