彼女の呪い

真夜中過ぎに女が言った。「あなたになら殺されてもいいような気がするわ」
「そう」と男は答えた。
女は彼女は病気で、さっきまではひどく呼吸を乱して苦しんでいたのに、今では別人のように安静になっていた。ベッドにうつぶせになり、肘をついて状態だけ起こした姿勢で首を曲げて、さっきからずっと男の顔を見据えている。身体のどこも動かさず、瞬きさえめったにしなかった。あまりにも動かないので女の姿は空間に描かれた絵のようだった。瞳だけが、病人に特有の強い光りをたたえて、らんらんと輝いている。
「それで、いつにするの?」
何のことだい、と男は言った。
いつ殺してくれるの。
――僕はね、人を殺すことには興味がないんだ」
「誰も殺したことはない?」
人間はね、と男は答えた。
「ほかのもの?」
男は黙っていた。
「人間でないものを殺すのには興味があったんだね」
「興味、っていうんじゃないな。つまりそのときの僕には、そういう行為が必要だったんだよ。何か弱いものを傷つけるという行為がね。
ねえ、私を殺すときには、……
殺さないよ。
「なるべく時間をかけて殺してね?」女はまるっきり無視して言った。その表情は、どちらかと言えば真剣だった。
「うんと苦しみたいの。ずっとそういう死に方を夢見てきたの。夢見るというより取り付かれてたの、そういう思いに、小さいころから。少しずつ血を抜かれるように、身体のあちこちからカビが生えて腐って機能しなくなるみたいに、死んでゆくのよ。そういうものだろうっていつしか確信していた。
「君はひどい強迫観念を抱えているんだねえ!」と男は笑いながら言った。
それが私の呪いなの。つまり運命なのよ。」
眠ったほうがいいよ。まだ病気は治っていないんだから。……
「あなただって何かしらの呪いを背負っているでしょう。そういう覚えはないの」
男は答えず、壁にかかった時計を見ていた。細い針は冷たく無表情に時を刻み続けている。
きっとこのまま死ぬんだわ。秒針が11の位置を過ぎたとき、女が言った。このまま弱っていって、死んじゃうのね。
たんなる風邪で人は死なないよ。でも早く眠ったほうがいいね。君は普段と違うみたいだから
「ねえ、カッターを取って下さらないかしら」
何?、と男は聞き返した。
「カッターナイフ。そこの棚に入ってる」
「どうしてそんなものが、いまいるの」
「試してみるの」
何を?
私の身体から血が出るかどうか
何を言っているのかわからないな
もう死が私の内部で起こっている気がするの。身体が少しずつ黴みたいなものに侵されはじめている気がするの。そのことを確かめるのよ。ちゃんと血が出るかどうか、確かめなくては。
熱でおかしくなっているんだね。眠ったほうがいいよ。
女は急に素早く動いて、ベッドから降りた。そして棚に近づいてそこからカッターナイフを取り出した。そして刃をカチカチと少し露出させたので、男はあわてて立ち上がった。すでに女は刃先を彼女の左手の手首にあてがおうとしていた。彼はその動作をやめさせるために彼女の腕を掴んだ。痩せていて、そのうえ病気であるはずなのに、女は思いのほか強い力で抵抗し、その力は男がちょっとたじろぐほどのものだった。その瞬間だけ、何か別のものが、怪物のような何者かが、女に憑依したかのようだった。
「本当に血は流れるのかしら。極めて疑わしいわ。
「馬鹿なこと言ってないで寝たほうがいい」
あなたはどう思う?血は出ると思う?
「当たり前だよ。出るに決まっている。確かめるまでもない。君は生きている人間なんだからね。」
「でも実際に試さないと、納得できないわ。この目でそれを見てみないことには、気がおさまらないわ。」
女の目は奇妙な光り方をしていた。それは熱とか病がもたらす目の輝きとは異なっていて、たとえば異常な対象に向けて異常な情熱を燃やすものの目に宿る、ある種の暗さをはらんだ光だった。男はしばらく放心したようにその目を見つめ返していたが、そのあとまるで催眠術でもかけられたみたいに、彼女の身体から手を離した。女は左手を少し持ち上げ、その手の甲の上で、右手に持ったカッターの刃先をさっと滑らせた。青白い皮膚の表面に細い線が浮かび、小さな、3センチほどの傷跡の上に、赤い液体が薄く滲んだ。女は浮かんだ血を部屋の明かりにかざした。

「でもまだ、何も証明されていないわ。」
「どういう意味かな。君の言葉はときどき難しすぎるよ」
「他の部分からも同じように血が流れるとは限らない。切っても血が出なくなってる部位は、もうどこかにあるはずだわ。
「傷を洗い流して、それからゆっくりと眠ろう。
「この先、どんどん侵されていく、黴みたいなものに蝕まれていく。そうするともうどこを切っても血は出ない。そうやって私は少しずつ、着実に干からびながら、死へ近づいていくのよ。蝕まれる、そうよ、その表現はぴったりだわ。私は蝕まれながら死んでいく。そういう呪いなの。」
そんな風に語る女の表情は、どこかうっとりしている。