ジャン・コクトーとドラム


バーでバンドが演奏していた。僕は途中からドラムの音しか聞いていなかった。そのドラマーの演奏があまりに非凡だったためである。それは技術的には派手さのない、シンプルな演奏だったが、曲調や展開に合わせて音色が微妙に、そして適切に変化し、一瞬の強打や、かすかなリズムの揺らぎや、タイミングの漸次的な変化によって、ドラムという楽器をまるで歌わせるかのようだった。たとえば一度だけ打ち鳴らされたライド・シンバルがリズム的にジャストではない場合がある。でもそのリズムのずれによって、そのパートにある種のスリルのようなものが加わった。そういう意味でその一打のタイミングは完璧であり、必然性を伴っていた。そうしたことはもちろん偶然には起きない。経験を積んだドラマーである彼の肉体がいわば本能的にもっとも心地よいタイミングを感知したのだ。

楽曲が終わり、バンドは短い休憩に入った。僕はすかさずドラマーのもとに行き、演奏を称賛する言葉を伝えた。ドラマーはクールで、というよりひどく不愛想な人物で、僕の言葉に表情も変えず、ろくに返事さえしなかったが、さほど悪い気分でもなさそうだった。
僕は彼に名前を聞いた。「ジャン・コクトー」と彼は答えた。いうまでもなくそれはフランスの有名な詩人の名である。同姓同名の可能性もなくはないが、おそらくこのドラマーの、ミュージシャンとしての第二の名前なのだろう。それともあるいは単なる冗談かもしれない。いずれにしても彼はジャン・コクトーなのだ。
言われてみれば彼の演奏はどこか詩的だった。正確に調節された声、柔らかではっきりとした発音、意味深げな音韻、そんな心地よい朗読を聞くように、僕は詩人と同じ名前のドラマーの演奏を聞いた。